guteki’s blog

愚適庵の日文美術館

 自作の、詩集・小説・随想など、一文をわざと長くしたり、逆に短文にしたり、形式段落を長大にしたり、訳の分からない文体にしたり、
色々に描いたものを展示しています。

小説 思弁とエポケー

         『思弁とエポケー』

イントロダクション
 人間の認識機能は、一般に「理性」と「感性」の両輪によって成り立っていると言われる。これに数学者の岡潔は「信解(しんげ)」という認識機能を最上のものとして付け加えた。前二者に倣って言えば「信性」と言うことにでもなろうか。岡の判断によれば、「知性」が最下等で、「信性」が最上である。しかし洋の東西を問わず誰も人間の認識能力として「信性」ということを言った者はいない。岡潔はこれを「性」とは言わず、「解」と表現した。すなわち「知解」「情解」「信解」(「ちげ」「じょうげ」「しんげ」)である。彼の信解体験を(今手元に参照する本がないので、うろ覚えの不確かな記憶で)書くと、道元の『正法眼蔵』の受容にまつわる次のようなエピソードだ。

 目の前の襖がスルスルと開いた。広い畳敷きの部屋の奥に姿は見えないが確かに道元禅師がいる。敷居を隔てて(岡は)正座のままで拝をした。その途端、『正法眼蔵』全体と書物の一葉一葉が掌にとるごとく一挙に了得された。
 従来の仏教用語でいうと「頓悟」である。岡はこれを宗教の世界に隔離せず、人間の認識一般に解放した。理性・感性は誰でもが初源的認識機能として備えている。ただその働きの程度は人によって異なる(陶冶の違いによるとデカルトは言っている)。ところが最上等の認識機能である「信性」は、人間であれば誰もが持っている「理性」と同じように、誰もが持っていながらしかし、それは埋もれたままで生きて働くものになっていない。
 この小説は岡潔が唱道する三解を、何とか言語文字で表現しようとするものである。従って当然、この小説は三部作になる。第一部は「知解」を主体にしたもので、この『思弁とエポケー』。第二部は「情解」を主体にした『近代詩の消長』。第三部が「信解」を主体にした『隠れてしまった神々』になる。
 第一部では、材料として用いた中島敦の『名人伝』(情解のレベル)をオイゲン・へリゲルの『日本の弓術』(知解のレベル)を用いて知的に認識したものである。加えて、主人公の「玉ちゃん」の夢の形で「信解」の世界を描出している。
 記述が断片的なので、理解し難い場合は中島敦とへリゲルの同書をあらかじめ読んだ上で、この小説を読んでくれると良いだろう。

                           

    序章

 見ただけでもう、吹き出してしまう。その後ろ姿。

 谷濁先生が歩いている。雨降りが続いた、とある五月晴れの朝。朴歯の高下駄で、かっこんかっぽん、見えない馬を引き連れてでもいるかのように、細い雄カマキリの先生が歩いている。まったく、竹籤のような首に、ぐらぐらする逆三角形の頭がくっついている。

 「先生、こんなに良い天気なのに、高下駄かいな」と尋ねたことがあった。

 「天気が良かろうが悪かろうが、高下駄が一番だ」という返事だ。

 「どうして一番じゃ」と重ねて聞くと、

 「大脳、特に前頭葉に大地からの刺激が、特に良く来る」。

何を言っているのか、もう判らん。じゃが、偉い先生らしいことは確かなんじゃ。

 「脳はいわば豆腐だ。高下駄を履くと大概のモンはぐずぐずに崩れる」と恐ろしいことを言う。

 わしが谷濁先生の家に出入りするようになったのは、先の御大戦の直ぐ後のことじゃ。親父の戦死が確認されると、母親は生きる張りを一気に無くして、それでなくても栄養失調気味じゃったで、みるみる萎れて亡くなってしもうた。たった一人の倅の、わしのことすら目に入らんようじゃったで、真に悲しかったんじゃろう。

 母親の弟なる人が斡旋してくれて、このならの蕎麦屋に丁稚に入れてもろうた。ちょうど十一歳、戦後のどさくさの時じゃ。

 変な店じゃった。ならで蕎麦屋というのが、後でわかったが、もう変なんじゃ。加えて親方が偏固だった。やたらに「学問」を振り回す。尋常小学校の時に『学問のすすめ』全編を読んだというのが、まず自慢じゃ。確かに、ほとんど行った記憶がないわしの国民小学校で読んだのと言えば、「犬が豆食った」じゃったけー。

 学問がないと人間ろくなモンにはならん、で、わしが丁稚に入る際の条件が、変じゃろう、『論語』の素読じゃった。江戸の寺子屋かいな。えらいアナクロじゃ。朝の仕込みが終わると中休みの代わりに「子曰わく」と毎日やらされた。お陰で漢字に対する親近感が人一倍増したようじゃ。勿論、意味はまるでわからんちんじゃ。ただ、読める。

 親方にだいぶ仕込まれて、手足が結構しっかりしてきた時分じゃ。谷濁先生のお家に初めて出前にやられた。出前の岡持を持たされたとき、親方が妙にぴりぴりしているのに気づいた。(蕎麦屋の出前で岡持はないだろう。その通りじゃ。じゃが、わしがあんまり子供なので親方がそうしたのじゃ)。

 どうしたんじゃろう。初めての出前のわしのことを気にかけているのだろうか。それにしたって、行先は店の直ぐ裏手だ。何のことはない、谷濁先生のお宅は、わしが奉公に入った店の裏にあった。せっかくの蕎麦をわしがこけてわやにしてしまわないかと、今更心配になったのじゃろうか。

 店の裏手の潜り戸を抜けると、目の前が先生のお宅だ。じゃが、面倒なことに(わしにとってだが)せんせんちの勝手口は反対側にある。初めて岡持を持たされた子供にとっては、意外な距離だ。

 岡持を一人前の大人のように片手で下げて歩こうとすると、どうも地びたに引き摺りそうになる。仕方がない。両手で捧げ銃の格好でよろよろと歩く。前が見えない。こけたら一巻の終わりじゃ。岡持の下に僅かに覗く自分の草履の先だけ見て必死で進んだ。

 「毎度」と勝手口から大声で呼んだ(そうするように親方に言われていた。そうすると女中さんが出てくるから岡持を渡せばいい)。

 誰も出て来てくれない。きっと声が小さいのだ。

 勝手口の戸を開けて、「まいどー」と、これ以上出ないくらいの金切り声で呼んだ。それでも、誰も出て来ない。出て来ない代わりに、

 「上がってこーい」と、なにやらじゃらじゃらがらがらする音に混じって、声がした。上がり框をよいしょと越えて、声と音のする方に廊下を伝ってゆくと、結構大きな茶の間がある。畳の上に高脚のテーブルを置いて、椅子に腰掛けた大人が四五人。金太郎飴を四角にして無数に断ち切ったような物を、その上でがらごろ捏ねている。

 わしが部屋に入って行っても、みな金太郎飴を捏ねるのに夢中で、誰も構ってくれない。岡持を持っているのももう限界じゃ。床の間の前まで行って、やっとこせと降ろした。それでも誰も見向きもしない。手持ちぶさたに茶の間をぐるりと見渡してみた。テーブルと椅子があるだけで他に何もない。床の間に畳に洋卓と椅子じゃから、いかにも珍妙で殺風景な部屋じゃ。僅かに床の間に掛け軸がある。「邪無思」とゴキブリが這ったような字で横向きに書かれていた。思わず、

 「おもいよこしまなし」

と大声に出して読んでしまった。つい、素読の癖じゃ。その途端に、がらがらがぴたりと止んだ。カマキリの白髪頭が、こちらを振り返った。

 「小僧、今何と言った」。

 「思い、よこしま、無し」。わしは、もう一度大声で読んだ。

 「おい、小泉君。君はこの子供以下だね」。

わしが大人と見たのは、実は先生ばかりで他はみな大学の学生じゃった。

 「ちょうど良い、ちょっと休憩にしよう」。

小泉君と呼ばれた狐のような学生が岡持を開けて、蒸籠と蕎麦猪口をテーブルに並べた。谷濁先生の眼から一瞬、稲光が出た。

 「うむ、今日の蕎麦は良い。小僧、帰って親方にそう伝えとくれ」。

親方が神経質そうにしていたのは、このことだったのかと合点して、ああ良かった帰ろうとすると、

 「そうだ、ちょっと待った、折角だ。昨日娘が持って帰って来た洋菓子がまだあったね。あれをこの小僧さんに食べさせてあげよう。駄賃だ」。

初めてじゃった。ケーキという物を食べたのは。岡さんという女子学生が、紅茶という物まで淹れてくれた。直ぐに食べ終わるのが惜しくて、もそもそしていると、

 「それにしても良く読めたものだ。今時の大学生じゃまず読めない」。

 「無理ですよ、先生のゴキブリがこけてじたばたしたような字じゃ、誰だって読めやしません」と言う学生の声に、

 「それは君らが無教養だからだ。まだましな小泉君でも、『じゃむし』って何ですか、だから、ほとんど猿だ」と、谷濁先生は容赦ない。

 「そうか、そう言うことで蕎麦屋の小僧さんか。しっかりやって親方を越える名人になってくれよ。……ん、そうだ……良い物がある」。

良い物があるという先生の声に、わしはまだ何か食べたことのないおいしい物が出て来るのかと期待した。

 「君、ちょっと済まんが二階の書斎に行って『名人伝』、そうだ、かなり薄っぺらの奴があっただろう。あれを取って来てくれんか。著者?中島敦だ」。

山崎という赤ら顔で小太りの学生が、身体に似ず敏捷に二階に駆け上がって行って、間もなく、手に入る程小さな一冊の薄っぺらな本を持って降りて来た。なんじゃ、名人のお話か。内心ガッカリしているわしに、先生が、

 「君ならこれが読めるだろう。難しいのにはルビも振ってあるし。尤も、読んでも意味が解るかどうか判らないが。解らなければ出前に来たついでに聞いてくれればいい。まぁ、初出前の、私からのプレゼントだ」。

谷濁先生は何だか嬉しそうにニコニコしていた。釣られてわしもニッコリしてお礼を述べ、勝手口から燕のように蕎麦屋に帰った。初めての出前が無事終わった。親方が安心したことは言う迄もない。この日はわしも、たんと草臥れてしもうた。

その晩、変な夢を見た。親方と谷濁先生がもの凄い形相で喧嘩をしている。わしはどうしたものかとその周りをおろおろうろうろしているが、どうしようもない。何となら、わしはアリンコ程の小ささで、喧嘩をしている先生と親方は、東大寺の南大門の阿と吽の仁王ほどもあるからじゃ。おお、そうか、そんなら決着をつけようわい。二人同時に獅子のように咆えると、ずんずんずんずん大股で歩いてゆく。アリンコのわしは二人を見失うまいと必死になって後をついて走る。すると親方と先生はどんどんどんどん大仏殿の中に入って行って、するすると大仏様がお座りになっている両の膝の膝頭の所にそれぞれ登って行く。と見ると向こう向きに尻をからげてしゃがみ、大仏殿が真っ二つに裂けるかと思われる咆吼を二人同時にすると、不浄の物をひり出し始めた。わー大変じゃー罰が当たる罰当たるーと大声で叫んだわしの口めがけて、あろう事か親方と先生が同時にひり出した不浄の物がもの凄いとぐろを巻いて蛇のように降り落ちて来る。思わず鼻と口を両の手でふさぎ目をつぶった。と見ると、降ってきたのは軽やかなしかしかなりの太さがあるプラチナの銀線なんじゃ。しかも大仏様のわしがうれしそうな顔をしてそのプラチナの銀線を蕎麦切り包丁で、とんとんとんとん、蕎麦に切っている。切り口が皆わしの顔の金太郎飴になって、それがどうしたわけか塞いだはずのわしの口の中にするするするする入ってくる。驚きと嬉しさと甘さがごちゃ混ぜになったわしは、とんとんとんとん、と叫んだ途端目が覚めた。親方の奥さんじゃ。野菜を切る軽快なまな板の音が聞こえる。ぎゃーと、内心でまた叫んだ。大寝坊じゃ。じゃが、親方からは何のお目玉も食らわなかった。きっと、初めての出前に免じて、大目に見てくれたのじゃろう。

 それからじゃ。わしは、午後の中休みになると決まって、先生から頂いたこの『名人伝』を読むようになった。漢字がやたらに多いが、読めることは読める。しかし、意味はほとんど解らない。何だか、面白そうだと言うことだけはぼんやりと判る。子供にしてもそれ程長い作品ではないんじゃ。直ぐに終いまで読んでしまった。不思議な気がした。こんな事があるもんじゃろうか。

 そこで、また初めから読み直すことにした。二度、三度と繰り返し読む内に、ああ此所は訳もなく面白い、という箇所が一杯出てきた。それでも不思議な感じは変わらない。それを谷濁先生に話したくて、わしの心はだんだんだんだん、風船綿菓子のようになっていくようじゃった。谷せんせんちに出前に行くのを心待ちにするようになったんじゃ。

       第一章

 谷濁先生のお宅への出前はわりと頻繁にあった。有ったんじゃが、先生は結構お忙しそうで、なかなかわし如きの相手をする機会がないみたいじゃった。それでも金曜日か土曜日は決まって夜に蕎麦の出前があった。わしはほとんど寝ている時間じゃったが、その時だけは寝ずにいて、親方に頼んで岡持で出前に行かせてもらった。

 たいてい何時もいる学生さんが誰もおらず、先生一人じゃった。親方に言わせると「お仕事」をなさっているらしいんじゃが、わしにはそうは見えん。何となら、この日だと、先生はわしの相手をしてくださったからじゃ。わしは懐から、もうかなりヨレヨレになっている『名人伝』を取り出した。

 先生、この本にはまず始めにこうある。

 「趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の名人になろうと志を立てた」。とわしが言うやいなや、谷濁先生はすかさず手近にあった本を取り出して、それはこういう事だと、その一節を読み始めた。

 「自分はもう日本に来て三年になる。そうして日本の文化について学ぶべき物が色々と有ることが、ようよう分かって来た。殊に日本人の思想には、仏教、就中禅宗の影響が非常に見える。これを知る捷径は、弓術を学ぶにしくはないと思う。自分は妻と共に日本に来て、日本文化に浸っているのであるから、日本にいる間に、その文化を出来るだけ正確に豊富に理解することが、日本における自分たちの生活をますます意義あらしめることだと思う」。

 ぽかんとしているわしに、谷濁先生は、「同じ事だ。こちらの方がよく分かるだろう」と言った。何が言いたいんじゃろう。わしが話したかったのはそんなことじゃない。だが振り返って、今わしが読んだところに書かれているのは、「紀昌」という人物が、「邯鄲の都」という文化の中心に住んで、「天下第一の(弓の)名人になろうと志」したことだ。先生が読んでくれたのは一体誰の話じゃ。

 オイゲン・ヘリゲルというドイツ人らしい。何でも大正十五年から、昭和四年まで仙台にいた人だそうじゃ。ドイツから来て東北帝大で哲学かなんかの講師をしていたらしい。先生が読んでくれたのはその人が書いた『日本の弓術』という本なそうじゃ。

 「玉ちゃん、何事にも初めがある。しかしただ無自覚に始まったんじゃ、何も起こらない」と先生が話し始めた。実はわしには「玉男」という名前があったんじゃ。 紀昌の場合は書き出しが突然で、名人になろうと志した経緯がよく分からない。しかし一方、ヘリゲルの場合は明瞭だ。わざわざドイツから異国のしかも西洋とはまるで異質の文明圏である日本に来た。そして、この辺が西洋人の西洋人たるところだが、「日本にいる間に、その文化を出来るだけ正確に豊富に理解することが、日本における自分たちの生活をますます意義あらしめることだ」と考えた。

 大正、昭和初頭という時代を考えれば、海外旅行など普通の人間には殆ど不可能なんじゃ。しかも、ヨーロッパからは僻遠の東洋のそのまたはずれの、日本に折角来たのだから、この機会を逃す手はない。日本の文化を出来るだけ吸収しようという決意をしたと言うのだ。つまり志を立てたわけだ。「立志」というのは現代の日本人には、東洋的で古くてカビ臭い言葉に聞こえる。玉ちゃんも知ってのとおり、孔子が「十有五にして立つ」と言ったところから来た言葉だから。孔子の場合は「学に志した」。

 ところで玉ちゃんも「立志」の歳がやがて目の前だ。どうだい、何か志が立てられそうかね。えっ、だって立志も何も、こうして蕎麦屋の丁稚見習いになっちゃっているんじゃから、こうなるしかない。

 玉ちゃん、それじゃあ立志じゃないんだよ。境遇や情況、成り行きで、仕方がないからと言う一生で良いわけがない。自分の一生だ。どう生きるか自分で決める。それが立志だ。自分の生きている社会が、封建社会だろうと近代社会だろうと、人間にとって立志が大事だと言うのに変わりはない。まあ、理屈で判断するとこうなる。これを「知解」と言う。

 しかし、玉ちゃんはこう思っているだろう。何が何だか、何をどうするんだか、まるで分からん。わしはそんなこと考えたこともない。

 これを知識がない、無教養と言う。しかし、そんなこと言われてもと思っているだろう。そう思っているのが、低レベルでの「情解」だ。「知解」と「情解」は一般には「理性的理解」とか「感性的理解」とか言われている。大概どちらかで決定し走り出してしまうのが人間だが、それじゃぁ、ほんととは言えない。

 わしは何が何だか判らなくなった。ここんとこ面白い、不思議、と言う話を聞いてもらおうと勢い込んでせんせんちに来たのだが、どうもそっちの方に話が向かない。しかし、わしにも「立志」とか言うことが大事らしいことは確かじゃ。一体わしはどうなっているんじゃろう。

 理屈つまり知解は万人に可能だ。だから有難い。何しろかのデカルトに依れば「理性」は万人に平等に与えられている。ただし、その働かせ方の度合いには、訓練によって、人によって多少の違いがある。だから、中には極めて非理性的な熊か狼のような輩もいることはいる。ところがこの知解という奴には、人の心、人情というものが通わない。 確かに万人に解る。しかし、それはお理屈ではございますが違うんじゃありませんか、と言いたくなるようなことが沢山出て来る。

 そう思うのが人間の自然な感情。つまり、情解だ。だがそれも自然ではあるのだが、逃げも隠れも出来ない自然とは言いかねる。まず生まれ落ちた環境、大げさに言えば、無意識のうちに植え付けられた文化的価値観に、深く根差している。しかもこれに自己愛、エゴイズムが絡まる。だからこそこの「違うんじゃありませんか」というのは、万人の(正確に言えば同じ共同体の人間の)共感を呼ぶことは呼ぶ。

 えっエゴイズムが解らん。それを絡めて説明をしたんだが。……玉ちゃん、もう少し大きくなったら、夏目先生の作品を読むといい。

 だから、人間の認識判断の根拠としての知解や情解は、まだ至らないところがある。じゃ、どうするんじゃ。すべからく人は「信解」のレベルに至らないといきようがない。玉ちゃん、信解のレベルに至らないと、人間、何をどうしても悖る。

 「信解」は情解の発動の根が、人間存在の基底を貫通して、自然、宇宙と繋がったところに発している。それは西欧の心理学者が言っているような、一個人の中で閉じられてしまっているものではない。だから醇化された自然な思いの発動には私心がない。そんなちゃちなものを通り越しているのだから、そんなものの出てきようがない。『維摩経』に「衆生病む、故に、われ病む」とあるのがそれだ。こんな事でエゴイズムは病気になりはしない。マザー・テレサが行き倒れた乞食を、何時までも無限に救い続けたのは、そう言うことだ。

 玉ちゃんが『名人伝』を読んで感じた「不思議」は、まだ情解のレベルの、いわばネガで、この信解のレベルでないと現像されない。不思議は此所で初めて、忘れていた自分と如実に再会し、面と向き合った、まさにその実感として出て来る。例えば、古代ギリシア人が想定した完全な人間。神によって二つに裂かれた現実の人間が、その半身を恋い焦がれる。どれほど身をよじって求めても、大概、会えない。雄が雌に、雌が雄に会えるのが関の山のピクニック。この不可能な自己の半身に、もし会えることがあれば、まさに、会った刹那、「信解」だ。

 私が奉職しているなら大学の裏門に、二本のカバの木が阿と吽の仁王像のように両脇に立っているだろう。獣医学部の教師が暇なものだからあれで学術論文を書いたことがある。ならの地におけるカバの珍奇的生育という論題だ。簡単に言うと、カバの木は寒帯性のもので、ならの低地では育たない。誰かが植えたのだ。誰が植えたかは分からん。

 彼は暇なのを活かして、徹底的にそのカバの木を調査した。幹の太さ、樹高、枝の張り方、本数、葉の数、大きさ、葉脈の形状などなどなど。その共通項を抽象して、次の結論に達した。この二本の木はカバではない、バカだ。

 駄目だよ、玉ちゃん、笑っちゃ。バカだというのは、瞬間適応性ということを言っているのだ。木には寿命の長い物が沢山ある。その代わり、新しい環境に直ぐ適用する能力がほとんど無い場合が多い。あのなら大学の裏門の木は、例外的に適応能力が優れていた、そう言う結論だ。

 ところが、そんな研究の遙か前に町の人は、あれは夫婦の木だ。だから、ああして仲良く枯れずに今でも生きてる、と言っていた。獣医学部の例の教師は、それを鼻で笑って、カバは雌雄同株だ、どうして二本の木が夫婦なものか、まったく素人は戯けたことを言うから困ると嘆いて見せたものさ。だから私は言ってやった。あの二本の木は同じ木じゃない、とね。一般庶民の言うことは歯牙にもかけなかった彼も、私に言われて改めて調べ直さざるをえないと思ったらしい。

 なぜ私がそう言ったかって?そう直観したからだ。町の人が言っているように、あの二本の木は確かに交感している。二本の木の間に立ち止まると、地面から浄らかな水(としか言いようのないもの)が浸み出し、私の足裏から徐々に下半身、そして上半身へと浸透して来る。私自身が根から水を吸い上げる一本の木になったようだ。そうして暫くしていると、心と体とが清らかに洗われたようなすがすがしい気分になる。殊に、内臓だ。内臓が透明になって中身が無くなる。まさに「腹に一物なし」。だから私はいつも、正門ではなく裏門から出入りするのだ。

 再調査に掛かったある日、獣医学部の例の教師が窒息しそうな顔をして私の研究室に駆け込んできた。

 「大発見です。あのカバの木は同じじゃありません。先生の仰ったとおり。右側の一本は確かにカバですが、左のは亜種カバでした。」

 亜種カバは日本では未だかつて生育例が報告されていない。珍種中の珍種らしい。この一本の木の発見のお陰で、獣医学部の例の教師は某大国の自然科学雑誌の世界的権威『ナーンダー』に永久にその名を残すことになった。得意満面である。

 なぜ違う木と分かったのか。地上に出ている部分は、幹も枝も葉も寸分の違いがない。しかし、地中の見えない部分がまるで違うらしい。根の張り方が完全に異質なのだそうだ。これほど明白な違いはない。何しろ木の生命の根底部分なのだから。例の教師の目では分からなかったが、この違いが二本の木に「信解」的な相違を発現させていたのだ。

 ただし、玉ちゃん、誤解の無いように言い添えておくと、「知解(ちげ)・情解(じょうげ)・信解(しんげ)」というのは、高名な岡潔先生の言葉だ(物の解らぬ輩はウルトラ右翼と非難しているらしいが)。人間の理解・認識の三つのあり方、レベルを言ったもので、実はこれを私が勝手に解釈して使っているだけなのさ。

その晩、変な夢を見た。わしは家に帰ろうとしている。その家は岡山の在にあって、母親が亡くなってから誰かの手に渡ってしもうた。もう帰る家はないんじゃが、どうもならのひよしやからその家に帰ろうとしているんじゃ。あたりは真っ暗じゃ。何所をどう歩いているのかすら判らん。じゃが、そんな遠くまで、歩いて帰ろうとしていることだけは確かじゃ。何でこんな事しとるんじゃろうと思った途端、突然目の前に一本の木がわしをとうせんぼするように地面から湧き出した。あれ、これは谷濁先生のなら大学のカバじゃ。と思った途端、そのカバの木がわしの母親の姿になって、振り袖を振ってわしに微笑んでいる。わしはどっと懐かしさがこみ上げて、思わず駆け寄る。と、突然その天女のような顔が山姥の、口が耳まで裂けてわしを飲み込もうとする恐ろしげな顔つきに変わった。わーっ、回れ右して逃げようとすると、また目の前にカバの木が湧いて出た。と思ったら、軍服姿の親父が、わしに最敬礼してにこにこ笑っている。あーよかった、親父もお袋も生きてたんじゃ。嬉しさが一気にこみ上げてきて、泣きながら駆け寄ると、その木が真っ二つに裂けて、お雛様のような親父とお袋になり、二人仲良く手を取って向こうに歩いて行く。わしなどまるで眼中にない。わしは必死になって駆け寄るんじゃが、どういう訳か優雅に歩いて行く二親に追いつかない。大声を出して呼ぶんじゃが、二人はまるで気づかない。ここで迷子になったが最後、もう永遠に親父にもお袋にも会えないという、根拠のない確信がわしの体全体をカラスウリの蔓のように取り巻く。必死に後を追う。じゃが、両親の姿はみるみるずんずん遠ざかり、芥子粒のようになって闇の奥に見えなくなってしもうた。もう取り返しがつかない、もう取り返しがつかない、どす黒い、はらわたを灼き潰すような後悔の念が、一気にわしの口の中一杯に溢れ膨れあがってきた。じゃがその中に何だか、ミルキーの飴玉のような物が混じっている。吐き出してみると、じいさんじゃ。母方のじいさんが出て来た。じいさんには会ったことがないんじゃ。このじいさんはわしが生まれる直前になくなったそうじゃ。じゃから、母方のばあさんは、わしをじいさんの生まれ変わりじゃ言うて、それこそ可愛いがってくれたそうじゃ。じゃが、赤ん坊のわしはとんと覚えておらん。その会ったこともないじいさんが、ミルキーだとどうして判ったのかわからん。わしが吐き出したミルキーのじいさんは、朝の銀色の光を受けて、輝いた。冷たー。しょむない、その途端わしは、自分の涎で目が覚めたんじゃ。

    第二章

 玉ちゃんを差し置いて、余計なことを随分長々と喋ってしまった。さて、玉ちゃんの番だ。何を言い掛けていたんだろう。そうそう、天下一の弓の名人となるという志を立てた紀昌が、そのために天下一の弓の名人と当時持て囃されていた、飛衛に入門するところだった。中島敦は、ここも

 「紀昌は遙々飛衛を訪ねてその門に入った」

と実に簡単に書いている。「遙々」が、一体何日かかって、何処まで行ったのかまるで分からない。ただし、この「遙々」に相応の含蓄を読み取るべきだろう。

 ヘリゲルの入門はこのようなものだった。東北帝大の同僚で阿波研造の長年の弟子でもあった小町谷操三によると、

 「大正十四年の春頃だったと思う。ヘリゲル君が訪ねてきて、弓を稽古したいから、阿波先生に紹介してくれと言った。……私は早速、……阿波先生を訪ねてヘリゲル君の希望を述べた、然るに先生は今までに幾人かの外国人に頼まれて教えてみたが、いずれも失敗したから、失礼だけれどもお断りする、と一言のもとにはねつけられた。外国人は、弓を遊戯もしくは運動と考え、弓道精神を理解しようとしない。色々説明を試みたけれども無駄であったし、また、先方も興味を起こさないうちに、飽きてやめてしまった。だから、また同じような不愉快な経験をするのは嫌だ、と先生は言われるのである。……ヘリゲル君の弓道を学ぼうとする目的は、決してそう言う点に存するのではなくて、真に日本精神を理解しようとするものであることを縷々述べた。先生は暫く考えておられたが、それでは快くお引き受けいたしましょう、その代わり貴下が責任を持って通訳をしてもらいたい、とのことであった」。

これは更に、ヘリゲル本人の言に依れば次のようであった。

 「ともかく私は、斯道の達人たる阿波研造氏についてもう何年も前から弓術を習っている日本人の同僚に、自分をその先生の弟子にしてもらうように頼んだ。先生はこの願いを始めきっぱりと断った。前にも一度つい惑わされて外国人に教えたことがあったが、その時は面白くないことがあった。それに先生は、弓道本来の精神をもって外国人の弟子を煩わしすぎたならば弟子が逃げはしまいかと心配して手心を加えるようなことはしたくない、ところが残念ながらそれは東京を始め一般に大都市で行われている事実である、というのが断りの理由であった。そこで私は、自分は弓と矢の操り方というような小手先のことではなく、大乗弓術とも言うべきものを学びたいのだから、先生がこの道の本質についてそんなに厳格な意見を持っておられる以上、自分をどんなに若い弟子のように扱っても異存はないということを誓言した。それで初めて私は弟子入りを許された」。

 ここに『名人伝』の「遙々」を読んでも良いような気がするが。と先生は仰ったんじゃが、そんならわしのはますます弟子入りにも何にもならん。ただ叔父さんの言うままにこの「ひよしや」という蕎麦屋の丁稚になったのだから。やはり立志というものが大事なんじゃ。何だか情けなくしみじみ思っていると、先生が、

 「玉ちゃん、そう捨てたものでもないさ。人それぞれだ。どういう道筋をたどろうと、問題は斯道に近づくことが出来るかどうかだ」。「斯道」とは何じゃろう。

 「人の人たる道でもあるし、それは同時に従事する専門の道でもある。玉ちゃんは自分では意識せずに、専門の道に入った。親方は、名人だよ。その名人に弟子入りしたんじゃないか。意識しないのに斯道に入る、というのは上根も上根。……上根とは、まぁ、良い玉と言うことかな」。

そう言われてわしは、ああ、わしのことを言ってくれたのかと何となく有難かった。わしは紀昌がその後どうしたのか俄然気になってきた。名人伝はこう続いている。 「飛衞は新入の門人に、先づ瞬きせざることを學べと命じた」。

「瞬きせざること」を身につけるために紀昌がしたのは次のような修行であった。

「紀昌は家に歸り、妻の機織臺の下に潛り込んで、其處に仰向けにひつくり返つた。眼とすれすれに機躡(まねき)が忙しく上下往來するのをじつと瞬かずに見詰めてゐようといふ工夫である」。そしてこの修行が成就するのに二年の歳月を要した。

 今時の学生に言わせれば、バカなことだ。こんな些細な何でもない無意味なことを一日中それを一年中さらに二年間も、何でやる必要があるんですか。そうご託を並べて、おそらく直ぐにやめてしまうだろう。弓の名人阿波研造が嘆いた外国人とまるで一緒だ。そんなことをしてうかうかと時間を浪費してしまうほど人生は長くありません。それより、時代に取り残されて誰からも見向きもされません。と大概こんな生意気な口を利く。どうも、ものの分からない奴らばかり増えたものだ。ともあれ、紀昌は、

 「竟に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衞に之を告げた。」

まず初めの修行が「瞬きをしないこと」だった。それにしても小説家というのは実にうまい表現をするものだね。えーっ、そんなバカのことのあるはずがないじゃん。というのが凡庸なわれわれだ。有るはずがないなどと言う軽率な判断を下す前に、まず瞬きしないことを自分で修行してみるが良い。きっと小さな蜘蛛が睫毛の間に巣をかけて、修行の成ったことを証してくれるに違いない。

 それにしても何故、瞬きしては駄目なんじゃろう。不思議そうな怪訝そうな顔をしているのを見て、先生は今度はさっと出すあんちょこの『日本の弓術』は出さず、自分で説明を始めた。

 「瞬きは、これは誰でも自然にする。眼の表面が乾くのを防ぐためだ。本質的に眼は水だから。乾くと見えなくなる」。じゃったら、矢を射当てることは出来ん。そう思っていると、

 「ところが、武術ではこの瞬きと呼吸が致命的なスキになる。練達の武術者は、相手の瞬きする刹那、息を吸う刹那に撃ち掛かる。このスキに電撃を食らうと必ず、回避することは出来ない。詰まり討たれる。凡庸な人間にとってはほんの一瞬でしかないが、修行の出来た名人にとっては、永遠と同じほども長い時間だ。相手がそれ程の時間目をつぶっていてくれているのなら、実に簡単に撃てる。」

 また訳の分からんことを、と思った瞬間、わしはあっと心の中で叫んだ。名人伝のこの箇所に思い当たった。「瞬かざるのみでは未だ射を授けるに足りぬ」として、次に飛衛が命じた「視る」ことじゃ。そう言われて家に帰った紀昌は、自分の肌着の縫い目から虱を探し出し、髪の毛で結んで南の窓にそれをぶら下げ、一日中眺め暮らすことにしたんじゃが、

 「紀昌は根氣よく、毛髮の先にぶら下つた有吻類・催痒性の小節足動物を見續けた。その虱も何十匹となく取換へられて行く中に、早くも三年の月日が流れた。或日ふと氣が付くと、窓の虱が馬の樣な大きさに見えてゐた。占めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑つた。人は高塔であつた。馬は山であつた。豚は丘の如く、鶏は城樓と見える」

と記されている、信じられないような話の所じゃ。瞬きしないで視ることと、呼吸とはきっと、何か関係があるんじゃないんかのう。

 「その通りだ、玉ちゃん、瞬きと呼吸とは一緒だし、その瞬間というしかし達人にとっては無限に長い時間的なものを、蚤や虱、人や馬という空間的なものにスライドさせれば、巨大な存在となる。瞬きしないのに二年、虱が巨大化するのに三年の歳月に渡る修行を要した。これは小説家が好い加減に見当を付けて書いたのだろうと思うかも知れないが、ヘリゲルの場合は、的前に立たせてもらう、つまり的に向かって射る迄に、四年の時日を要した。それ迄は、すぐ目の前の、大太鼓ほどもある巻藁に向かって、ただひたすら弓を引き矢を射ていた。嫌でも当たる。ヘリゲルが日本に滞在したのは足かけ五年だ」。

 ヘリゲルにとってのこの「巻藁」が、名人伝で紀昌が師の飛衛に命じられた「瞬かざること」と、それが達成されて次に指示された「視ること」だったんじゃ。と思った途端、今度も谷濁先生は次のような話を始めた。

 「これは宗教の修行者がその瞑想修行の最中に体験することと似ている。私なんかでも、一週間ほど家に閉関して瞑想すると、庭の木々の葉の緑がこんな美しい色をしていたのかと驚く。まるで見違える。低レベルだが、信解で木の緑が見える」。

 へぇ変な先生だとは思っていたが、やはりそんなことをなさっているんじゃ。いや、これは変じゃないんかな。

 「簡単に言えば、瞑想で表面の波立ち、動揺が終熄して、心が誰でもが言うところの明鏡、明らかな鏡のようになる。かの有名な『漢現るれば、漢現ず、胡現るれば、胡現ず』だ。その鏡の心で視ると、見たものの露堂々の姿が見える。しかも、そこに至る過程で、様々なことが起こる。意識と神経とが研ぎ澄まされて、というより心に入る雑音が無くなってきて、日常普通には聞こえないようなレベルの物音が聞こえてくるようになる。例えば、あまりのひもじさに泣いた蚊が落とした涙の音とか、ゴキブリのおくびの音とか、そんなものはあまり耳に入れたくないが、普通なら到底聞こえるはずのない物音が、聞こえてくるようになる。仏教の方で天耳通とか天眼通とか称しているのも、この類と考えていい」。

 そうか覚醒剤をやると、そんなことが起こるという話は聞いたことがある。ついこないだ、大仏殿あたりに屯する地回りの兄ちゃんが、ひよしやの店の前でひそひそ声で話しているのを、わしは聞いたんじゃ。

 「いや、玉ちゃん、それとこれとを混同してはわやだ。地回りの覚醒剤兄ちゃんのは、薬物的なもので、だから主体性がない。聞こえるのではなく、聞かせられているのだ。だから、創造性がない。というより、むしろ自己破壊的になる。大概、脳味噌が壊れる。バカがカバ以下になってしまう。私が言っているのは、それとはまるで反対だ。薬物という外的なものではなく、自らの心を制御することから出来する内的なものだ。だから、主体的で創造的であり得る。尤もへぼな科学者は、いずれも脳内に分泌されるある物質に依るのだから、同じ事だと言うだろうがね」。

 話がちょっと横道に逸れてしまった。飛衛に入門した紀昌が、まず最初にした修行のことだったね。名人伝の表現だと、こんな事があるかよ!と言いたくなるような、随分と誇張された話のような感じだったが、理屈で考察すると、全然変な話ではない、却って正確な表現になっていると判断できる。ただし、名人伝の表現の方が、読み手に与える衝撃力は大きい。情解に訴えるからね。ここで読者が味わうべきは、意味の正当性・合理性よりはむしろ、感覚的衝撃力の大きさそのものでなくてはならない。谷濁先生に言わせれば、ある一つの同じ現象、事柄を、二つのそれぞれ異なるレベルで表現しているのが、中島敦の『名人伝』とオイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』と言う事じゃ。だからこの二つの作品は、二人が示し合わせて書いたものではないんじゃが、通底していると見ることが出来る。

 それにしても、わしは心底吃驚した。虱が馬ほども大きく見える、なんて言うことが果たしてあるもんじゃろうか。先生の説明をこうして伺うと、成る程と納得はされるんじゃが、それにしても大いに不思議な気がした。じゃがきっと、これで紀昌は入門の第一関門を突破したんじゃ。だから名人伝の作者は次のように筆を継いでいる。

 「紀昌は早速師の許に赴いて之を報ずる。飛衞は高蹈して胸を打ち、初めて『出かしたぞ』と褒めた。さうして、直ちに射術の奧儀秘傳を剩す所なく紀昌に授け始めた」。

 そうだ、玉ちゃんの指摘したとおりだ。師匠の飛衛のこの喜びようは察するにあまりある。何しろこの初歩的な関門でさえ、突破できる弟子はほとんど稀なのだから。勿論、ここまでに至ったというのが並大抵の努力でないことは確かだが、しかし、こうすんなりとは行かないのが世の常さ。中島敦はこの間の経緯を書かなかった。書かなかったのはおそらく、この作品全編の性格、統一性の問題だろうが。実はヘリゲルは、修行のあまりの成果のなさに、あれほど真剣に入門を頼んだのに、もうほんの入り口の所で弓の修行を止めようとまで悩んだ。

 えっ?そんな単純なことではないんか。もっと大変なんじゃ。と驚いたまま、その日はもう遅うなったで、ひよしやに帰った。

その晩、変な夢を見た。親方があろう事か、せっかく打ち終わった売り物の蕎麦を自分で全部食べている。それも茹でもせず、薬味も蕎麦つゆも使わず、おまけに鼻からずるずる脳味噌の中に食べている。食べた先から髪の毛になって、連獅子の親父の髪のような噴水になって蕎麦が垂れ下がる。その隣で中国人の見たこともないおっさんが、麺を打っている。一本が二本二本が四本四本が八本八本が十六本、千本が万本万本が億本。あいやー、麺が蜘蛛の糸のようになったある。きらきら輝く蜘蛛の糸の麺を、母親の毛糸巻きの手伝いをする子供のように腕をくるくる回して作っているのは、あれっ、中国人のおっさんのわしなんじゃ。いつの間に中国人になってしもうたんじゃろう。しかも服装からすると遙か昔の周の時代の中国人で、中国人のわしがどうも親方に麺の打ち方を教えたらしい。何だか態度がやけに大きい。そうれ、わしの麺の繊細さと強さをよーくよく見るが良い。と土蜘蛛が投げつける蜘蛛の糸の投網のように、うわーと麺を投げ広げる。その網の中にカトンボのような親方の連獅子の髪が絡み取られて、奥さんの女郎蜘蛛に食べられようとしている。あいやー大変じゃ大変じゃ、驚いたわしは何とか親方を助けようとくるくる腕を回す。回せば回すほど親方はわしの蜘蛛の糸にますます絡め取られて、女郎蜘蛛の奥さんの方に引き寄せられてゆく。親方を助けようと必死に腕を回せば回すほど、細麺の蜘蛛の糸は練り上げられて行って、ねばねばする水飴になっちゃった。なあーんじゃ。水飴はこうして作るんだ。簡単じゃ。楽しくなって、くるくる捏ね捏ねこね回すと、親方はにこにこしながら女郎蜘蛛の奥さんに食べられて水飴になってしもうた。……暗い水底にいるような喪失感が胸の中に雨漏りのシミのように広がって来た。困っちゃったなー。これでもう教えてくれる人がいなくなってしまった。明日から、どうしよう。と途方に暮れて悲しくなっていると、鶏が鳴いた。ああよかった。本当の朝になったんじゃ。わしはふかーい安堵感を感じながら、寝床から起きあがった。

第三章

 ともあれ、ここまで来て初めて、弓を射るためにまずどうしても最初に仕上げなければならない基盤が、確固としたものとして出来上がった。名人伝では「瞬きせざる事」と「視ること」であったが、巻藁にひたすら向かっていたヘリゲルにとってそれは、「良い射方」であった。良い射方がごく普通に自然に出来るようになったことを師匠の阿波研造に認められないうちは、決して的前に立つ即ち、的を射させてはもらえなかったのである。

 百発百中で的を射当てるのが良い射ではないんか。「奥義伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である」と名人伝にはある。当たらなければ、その腕前が良いか悪いか分からんはずじゃ。

 成る程玉ちゃんがそう思うのは無理もない。しかし、阿波研造師範はこう言っている。養由基は柳の葉を百歩の外から射抜くこと百発百中であったのに反し、孔子の射は百発成功であった。即ち孔子は弓によって正しき心の把握に成功した。而してその正しき心が天地に充満する有様であったので、観者はその神々しさに感激した。弓道の精神は、養由基の百発百中に在らずして、孔子の百発成功に在る。射は人格形成の手段であって、正しき射を修養すれば、一射ごとに人格の向上を計りうる。而して一箭ごとに完全な自我が宇宙と合体しうると。

 だめじゃ、何を言っているのかとんと分からん。ちょっとおせっきょ臭い感じがするんじゃが、とにかく、ただ射当てるだけではほんとの名人とは言わんらしい。玉ちゃん、そうだよ。それではただの芸人だ。その程度のレベルだと、碌な事を考えない。

 わしは、またあっと思った。名人伝のここじゃ。

 「最早師から学び取るべき何ものもなくなった紀昌は、或る日、ふと良からぬ考えを起こした。……天下第一の名人となるためにはどうあっても飛衛を除かねばならぬと」。

 天下第一の弓の名人になる、という志を立て、それに邁進したのは良い。しかしだ、その師匠を亡き者にしなければ天下第一になれないと考えること自体、「邪無思」どころかその真反対、邪有思だ。いくら百発百中で柳の葉を射抜いて見せたところで、心の底から賞賛する者は一人として居ないだろう。阿波師範は、百発百中は凡射であり、百発成功は聖射である。百発共に目に見えない正しい心の体得に成功すると言うことが、孔子のような聖人の射であるとも言っている。

 ふーん、孔夫子が弓の名人とは聞いたことがなかったが、成る程、夫子は弓の名人中の名人と言うことになりそうじゃ。

 ちょっと小難しいことを言ってしまったようだね。玉ちゃん、もう少し面白いことも言おうか。実は、この「百歩」も面白いんだ。ヘリゲルがドイツで行った講演で、安土の的までの距離を「六十メートル」と言っているのと、この百歩は符合する。『名人伝』は、昭和十七年の発表だから、おそらくヘリゲルはこの作品を読んでいないだろう。ヘリゲルのベルリンでの講演は、昭和十一年だから。むしろ、中島敦の方が、ヘリゲルを読んでいた可能性はある。『日本の弓術』は同年に翻訳され、『文化』という雑誌に「弓術について」というタイトルで掲載されて、結構な評判を呼んでいたからだ。ついでに言えば、阿波研造は昭和十四年に、六十歳で亡くなっている。

 ちょっと話が逸れた。尤も、百歩に関して『日本の弓術』(岩波文庫本)に寄稿している小町谷操三は「ヘリゲル君と弓」で、六十メートルというのは、ヘリゲル君の勘違いで、実際は二十八メートルだと書いている。弓道では遠的と近的とがある。一般の町道場の場合は、そんなに長い距離は取れないから、近的の場合が多い。近的は二十八メートルで的は直径三十八センチ、これは怖いことを言うと、近距離にいる人間の顔や胸や腹部だ。遠的が六十メートルで的は一メートルある。これは怖いことを言うと、六十メートル先の人間だ。序でに、京都の有名な三十三間堂の通し矢は、三十三は柱の数のことで、距離は遠的の倍の百二十メートルもある。この距離を射通すこと自体が相当に難しい。ともあれ、ヘリゲルが普段練習していたのが近的であったので先の指摘が出て来たと思われるが、ここではヘリゲルの言う通り六十メートルと見た方が、名人伝の記述と合致していて面白い。しかも、的は直径一メートルではなく、柳の葉っぱだ。だが「瞬かざること」「視ること」を確立した紀昌にとってその葉は、巨大な千石船が枝からぶら下がっているように見えたに違いない。

 うん?ヘリゲルが弓を止めようとした経緯?ああ、そうだった。つい話が横町に入って熊さん八つぁんになってしまった。そうだ玉ちゃん、ヘリゲルはこの「良い射方」つまり修行の初歩の初歩の所で大きな壁、どのようにしても突破不能な銀山鉄壁にぶち当たってしまった。「良い射方」とは、言葉を換えて言えば、「心で引くこと、つまり筋肉をすっかりゆるめて力を抜いて引くことを学ぶ」こと、即ち「無術の術に至る道」だった。それは次のように示唆された。

 「弓術はスポーツではない。従ってそれで筋肉を発達させるなどと言うことのためにあるのではない。あなたは弓を腕の力でひいてはいけない。心で引くこと、つまり筋肉をすっかり弛めて力を抜いて引くことを学ばなければならない」。

 玉ちゃん、阿波研造は事も無げに簡単にこんな事を言っているが、実際、素人が弓を引いてみると、どんなに気張ってありったけの力を出してみても、たいていの者は弓を引き絞ることすら出来ないだろう。まして矢を射放つなど到底の無理難題。弓弦はそれ程強く硬い。ヘリゲルは当惑した。

 「最初の試みで早くも気づいたが、引き絞ろうとすれば、私はどうしても力を、しかもかなりの筋力を使わざるを得なかった」。仮に引けたとしても次には「左手は腕を伸ばして目の高さに、右手は腕を曲げて右肩の関節の高さに来るように広げる。するとこれで相当に深く引き絞ることが出来るようになる(結果的に右腕はくの字に折り曲げられて、肩の高さの位置で地面と平行になる)。射手は射放つことが出来るまで、この姿勢のまま暫く待っていなければならない。こうしていると数秒の後にはもう私の腕は緊張のために震え出すのみならず、呼吸がだんだん苦しくなり、射放って初めてこの苦しさから救われるのであった。そしてそれが毎日毎日繰り返されたが、弓を引くことは依然として力一杯に緊張することで、どんなに稽古を積んでも心で引くことにはなりそうにも思われなかった」。そう思いつつ、ドイツ人らしく、きっと何か引くこつがあって、やっている内にそれが呑み込めるのだろうと自らを励まし、ヘリゲルは「不撓不屈、ドイツ人特有の徹底ぶりで稽古を続けた」。

 師の阿波研造はその稽古ぶりを暖かい眼差しで見守った。ヘリゲルが力を入れて弓を引く度に、しかし、必ず鋭く叱責した。それ以外は彼の工夫に任せた。「そのうちとうとうある日私は、自分が行き詰まっていることを認めざるを得なくなった」。どのようにあれこれ工夫してみても、どれほど毎日稽古してみても、力を入れずに引くことは遂に出来ない。工夫も出来ない、弓も引けない。袋小路に入ってしまったんじゃ。

 ここまで来て初めて、阿波研造は助け船を出した。「あなたが弓を正しく引けないのは、肺で呼吸するからである。腹壁がほどよく張るように、息をゆっくりと圧し下げて、痙攣的に圧迫せず、息をぴたりと止め、どうしても必要な分だけ呼吸しなさい。いったんそんな呼吸の仕方が出来ると、それで力の中心が下方へ移ることになるから、両腕を弛め、力を抜いて、楽々と弓が引かれるようになる」。

 腕で弓を引くのではない、お腹で引くのだ。腹式呼吸じゃ。ひよしやの親方が蕎麦を打つときと同じじゃ。

 言うだけでなく、阿波研造はそれを実際にして見せた。「自分の強い弓を引き、私に腕に触ってみるようにと言った。実際その両腕は、何にもしていないときと同様に弛んでいた」。

 ここでまた、わしはあっと思った。名人伝のこの箇所じゃ。

 「二十日の後、一杯に水を湛へた盃を右肱の上に載せて剛弓を引くに、狙ひに狂ひの無いのは固より、杯中の水も微動だにしない。」

この時、阿波研造師範の右肘に同じように杯を載せてもこの名人伝とまったく同じに違いない。小説家が書くのは面白ければいいと言う、見てきたような嘘偽り、誇張ばかりではないんじゃ。驚いているわしに、谷濁先生は言った。

 これほど明々白々な教示はない。ヘリゲルは内心、舌を巻いたに違いない。出来ないことはない、いや出来るのだ。ついさっきまで不可能と投げ出しかけた事が、今や、この上ないほど明白に可能な事実として心の中に焼き付けられた。その時からヘリゲルの心は専ら、腹で呼吸することにのみ向けられた。弓を引くのは二の次になり、やがて弓を引くことすら意識しなくなった。確かに弓を持ち矢をつがえ引き絞るのだが、それは無意識裡の動作と化し、意識にあるのはただ臍下丹田に気を充実させること、即ち腹で呼吸することだけであった。

 一般に男はどうしても肩を怒らせ、横隔膜で呼吸しがちだ。えっ、肺で呼吸するんじゃないんか。勿論吸気は肺に入り、呼気は肺から出る。このふくらんだりしぼんだりする風船玉のような肺を、膨らませたり萎ませたりするのはしかし肺自身ではない。横隔膜と呼ばれる筋肉が、周期的に伸縮することによって肺に空気が出入りする。クラシックの声楽家の呼吸法がこの最たるものだ。歌手の肋骨の背後に手を当てると、息を吸ったときその空隙が倍以上にも膨らむのが分かる。

 ところが一般に女性はこの横隔膜の筋力が弱い。これを補うために知らず知らずのうちに女性は腹式呼吸をしている。横隔膜の伸縮によって行う胸式呼吸に対して、腹式呼吸は文字通りお腹の伸縮によって行われる。呼気、つまり息を吐き出す時にお腹をぺっちゃんこにし、吸気、つまり息を吸うときにお腹を出来るだけ膨らます。この時、口で吸うと腹式にならない。鼻で吸う。実際やってみれば分かるが、口で吸うとどうしても自然と横隔膜に連動するようになっているので、うまくお腹を膨らますことが出来ない。

 ただし、この腹式呼吸では実は弓は引けないんじゃ。これでは最も肝心な気海丹田に気が充溢することがないからだ。勿論、胸式呼吸ではそんなことは金輪際起こらない。気海丹田、臍下丹田、臍下三寸とも言う。肺に空気を入れるのではなく、下腹に空気を入れる。空気が入るのは肺じゃろう。科学的、生理学的には肺だが、腹式呼吸のこつを分かり易く言うとこうなる。そして、もっと肝心なのは、息を吸う時ではなく吐く時に、阿波師範が言ったように「息をゆっくりと圧し下げ」る、即ち、息を吐く時に臍下丹田を膨らますのだ。そして、「息をぴたりと止め、どうしても必要な分だけ呼吸」する。

 玉ちゃん、早速やって見てるね。わしは直ぐにそれをやって見た。出来ない。息を吸う時にお腹を膨らますのは簡単だが、息を吐く時に下腹を膨らますのは、自然に反する。それに、息を止めて必要な分だけ呼吸するとは、どうするんじゃ。

 現代のわれわれからすると、一見自然に反するようなこの呼吸法は、しかし、一廉の武術者なら誰でも自然に会得していたものだろうと考えられる。「腹が据わる」という言葉がそれを表している。これを明確な意識のもとに修行法の基盤としたのが、おそらく中世の禅宗の坊主であろう。なぜそのような呼吸法を良しとしたのか。臍下丹田に気を充溢させるというのはどういう事なのか。

 玉ちゃん、気を充実させるというのはおそらく坊主よりむしろ武術家の側からの話だ。坊主の場合にはここに心を置く。わしは、まるで話の筋が頭の中で蚊柱のようになって、何が何だか判らなくなってきた。

 それは無理だ、玉ちゃん。そんなに簡単にはできない。息だけを下腹に降ろそうとしても駄目さ。まず姿勢が肝心だ。腰がしっかりと入っていないといけない。昔から「腰抜け」と人をバカにするだろう。腰が抜けていると、何事に依らず、しっかりとした働きは出来ない。

 そうじゃ、ひよしやの親方も、事ある毎に五月蠅くわしにそう言っておる。水を運ぶときも、店の前に打ち水するときも、いつも。

 腰を入れろと言われると、無闇に胸を前に突き出してしまう者がいる。成る程腰は入る。しかし、その姿勢では肝心な腹式呼吸は出来ない。だから、胸を出すな、と言われる。胸を引く。すると腰が出てしまう。また、腰を出すなと言われる。腰を入れると、また胸が出てしまう。

 そうなんじゃ。決まってそうなってしまう。どうすればいいんじゃ。

 簡単だよ、玉ちゃん。だから昔から日本では、「頤を引け」と子供に言ってきた。頤を引くと一緒に腰が入って、しかも胸も出ない。ヘリゲルの場合は、稽古の結果、無意識の習い事となっていた弓を引く動作で、既に頤は知らず知らずのうちに引けていて、腰もしっかりと入っていたに違いない。先ずそうでないと、弓は引けないだろう。だから、息だけに専心して良かった。玉ちゃんの場合は、だから、先ず姿勢だ。

 言われてわしはぐっと頤を引いてみた。あれっ、釣られて腰が入った。不思議じゃ。だが、同時に気分がきゅっと引き締まって良くなった。

 それはそうだよ。腰が引けて頤が出ていると、人間の身体の支柱である背骨が前屈みになって湾曲する。知っての通り、背骨の継ぎ目の部分から中枢神経が出て、身体の各部位に繋がっている。背骨が曲がっていると、その出口が圧迫される。良いわけがない。自律神経の働きが鈍麻し、心が濁る。

 うーむ、たかだか姿勢一つでも、こんなんじゃ。親方がわしに五月蠅かった訳じゃ。その時、内心くそ親父、と思わなかったこともない親方が、とても有難く思われた。子供心に「斯道」とか言うものの奥深さを感じて、鳥肌が立った。

 まあ、そんなものだね玉ちゃん。いくら親方でもと言う気持ちが時にひょいと出て来るのが人間だ。例のエゴイズムさ。ヘリゲルを阿波研造師範に紹介した人物である小町谷操三の「ヘリゲル君と弓」にもこんな場面がある。

 「いつのころであったか、ヘリゲル君の稽古が始まる前に稽古に来ていた大学生があった。先生はその学生に、一本ごとに親切な説明を加えて弦を執ってやっていたところ、その学生が三、四本目の矢を放ち終わると、いきなりその頬をピシャリと張りつけた。学生は非常に緊張して次の射を試みた。今度は先生が大きな声で『ようし!』とどなった。それから先生とその学生とは、いとも楽しそうにその日の稽古を終えた」

 この時の学生の内心はどうだっただろう。「非常に緊張して」とあるから、彼の心の中にはこの時、邪悪なものは生じなかったかも知れない。いや、そんなものが入り込む余地のない程、切迫していただろう。ただし、中にはいろんな人間がいる。ピシャリと張りつけられたとき、今時の学生みたいに、ちょっとすいません、トイレに行かしてくださいなどと言って、その場から逃げ出したりすると、往々にして邪悪な心が鎌首をもたげてくる。陰湿な場面に逃げ隠れするとこうなるが、しかし再び稽古場に戻ってくれば、赫赫たる太陽が照りつけている。微菌は直ぐに死滅する。この場面の学生の一瞬の心理を、二三十分ほどにも延ばすと、名人伝の次のような記述になる。そうか、あそこじゃな。

 「祕かに其の機會を窺つてゐる中に、一日偶々郊野に於て、向ふから唯一人歩み來る飛衞に出遇つた。咄嗟に意を決した紀昌が矢を取つて狙ひをつければ、その氣配を察して飛衞も亦弓を執つて相應ずる。二人互ひに射れば、矢は其の度に中道にして相當り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が輕塵をも揚げなかつたのは、兩人の技が何れも神に入つてゐたからであらう。さて、飛衞の矢が盡きた時、紀昌の方は尚一矢を餘してゐた。得たりと勢込んで紀昌が其の矢を放てば、飛衞は咄嗟に、傍なる野茨の枝を折り取り、その棘の先端を以てハツシと鏃を叩き落した。竟に非望の遂げられないことを悟つた紀昌の心に、成功したならば決して生じなかつたに違ひない道義的慚愧の念が、此の時忽焉として湧起つた。飛衞の方では、又、危機を脱し得た安堵と己が伎倆に就いての滿足とが、敵に對する憎しみをすつかり忘れさせた。二人は互ひに駈寄ると、野原の眞中に相抱いて、暫し美しい師弟愛の涙にかきくれた。」

 「野茨の棘の先端で鏃を叩き落とした」は、例の表現だがどういう訳かここに、小説家は注らしき言い訳らしきコメントを付けている。「時代が遙か昔、道義も何もなかったときだから、紀昌がこんな恩知らずな野望を抱いたとしても仕方がない」。作品を発表する時代を牽制するためのものだったのだろうか。わざわざ丸括弧に入れてある。作品全体の簡潔雄勁な表現からすると、どうも異質な箇所だ。また横道の逸れたようだ。そうか、呼吸の話だ。

 「息をゆっくりと圧し下げ、……息をぴたりと止め、どうしても必要な分だけ呼吸」すると言う話じゃ。ゆっくりと押し下げるのは理屈ではわかった。問題はその先じゃ。息をぴたりと止めて必要な分だけ呼吸するとは、どうすることじゃ。息をぴたっと止めたら、呼吸は出来ん。

 玉ちゃん、それはそうだ。止めたままなら人間、死んでしまう。息を吐く時、ただ鼻から出すのではなく、出す息を臍下丹田にゆっくり静かに押し下げる。勿論生理学的には、息は鼻から出て行く。そう言いたければ、呼気と同時に「気」が押し下げられて丹田に蓄えられてゆく。一呼吸分の気が下腹に降りきったところで、ぴたっと息を止める。

 これは文字通り、そこで止めるのだ。前に練達の武術家は呼気ではなく相手の吸気の刹那、瞬きの刹那に撃ち掛かるという話をした。そうか、息を吸うときは攻撃が出来ない。逆に相手に攻撃の隙を与える。呼吸をぴたりと止めないと、狙いも定まらず、逆に自分が的からやられてしまうんじゃ。息を吸ってはいかん、瞬きしてもいかん。

 そう読むんだが、ここは訳の問題もあるだろうが、読点がついていて、動作は時間的に前から後の記述の順に推移すると読むことも出来る。すると、玉ちゃんがした読み方も不可能ではない。先ず、息を静かに細く長く徐々に鼻、首、胸、そして下腹へと身体の前面に沿って押し下げてゆく。圧し窮まったところで、それをぴたっと止める。おそらくこのままの状態が、矢が射放たれるまで持続されるのだろう。沈思が相応に深くなければ、矢を射放つ機は熟さないままだから、その時は必要な分だけ息をする。十分に呼気が下腹に圧し下げられていると、吸気はすっと一瞬にして入ってくる。しかし、矢を射放つ必要のない瞑想修行者の場合は、呼気が窮まった地点で刹那に吸気に反転してくる。

 つまり、呼気が丹田の奥の奥で終熄する刹那そこから、尻、尾骨、背骨と、身体の裏側をゆっくりと静かに上昇して行き、首を通り、頭蓋の裏側の湾曲を伝って頭頂へ廻り、眉間を通って鼻に出て来る。吸気が鼻に出た刹那に呼気に変じ、鼻孔を通り眉間の直下から身体前面を、内臓の前面を、先と同じように、ゆっくりと細く静かに丹田に降りてゆく。つまり、静かに細く、ゆるゆるとした息の巡礼が、無限循環となって行われる。

 うわー、また藪の中の蚊柱じゃ。息一つするだけで、こんなんじゃ。普通に無意識に自然に息するだけでは、駄目なんか。

 ヘリゲルにとって第一関門となったこの腹式呼吸は、しかしやがて出来るようになっていた。と同時に、ヘリゲルは力を入れず弓を引き絞る、即ち腹で弓を引くことが出来るようになっていた。「良い射」が必ず師匠に叱責される「悪い射」を上回っていた。ここで初めて、師匠の阿波研造は、次の段階、つまり的を射させる段階に進むことを許した。ここまでに到った境地をヘリゲルは次のように述べている。

 「良い射が次第に悪い射を退けました。しかし、私がどうして正しい射方をするのかと問われれば、私は知らないと答えるしかありません。私は何もしないし、また、それがどうなるのか注意することも出来ないが、いつの間にか矢は放たれているのです。」

 玉ちゃん、これが信解だよ。阿波師範が修得することを命じた「無術の術に至る道」だ。ここに到って、ヘリゲルは始めに自分が疑っていたことを、本人もどうしてか分からないままに自分自身で体現している。西洋人らしくあれ程、技術、こつに拘泥し、従って言葉で教えることが出来るはずだと端から思って疑わない牢固とした理屈屋が、知らず知らずのうちにその鎧を脱却して、本来の姿に立ち返ったのだ。

 これは身体と心とが一つになって初めて達成されることだ。勿論、身体と心には、人それぞれに生得的な違いがある。大きく頑健な体躯を持つ人もいれば、身体が小さく蒲柳の質の人もいる。不撓不屈の心を持つ者もいれば、薄志弱行の徒もいる。だから人それぞれの持ち分に応じた心と身体の工夫がいる。これは当然マニュアル化したり言葉で表したりすることの出来るものではない。まさにユニークな純粋に個性的なものだ。その人それぞれの持ち分に応じて、それぞれの工夫が行われなければ仕様がない。

 そうか、身体と心とが一体となって、初めて信解の世界が現出してくるんじゃ。わしは、親方の蕎麦打ちをもっとじっくりと見ていなければならん。親方の場合は信解の発現が、きっと谷濁先生の稲光を発するあの眼が認める、光を放っている蕎麦なんじゃ。確かに親方の打ったものは、なら駅前の「まるや」のとは段違いじゃ。尤もそんなことを親方に言ったら、おべんちゃらする前に腰入れて掃除せんかいとどやされそうじゃ。使ってる材料が月とすっぽんやから、違うのはあたりまえや。じゃが、使っている材料が同じでも、きっと月とすっぽんなんじゃ。

 それにしても不思議じゃ。神技に入る、と言う言葉があるそうじゃが、本当なんじゃろう。わしもそんな風になりたいもんじゃ。

       ☆

その晩、変な夢を見た。大きな朴の葉の上に、実に小さな蚕が一匹うにょうにょ身を捩るように蠢いている。その遙か後ろ、朴の葉の上じゃからそんな距離はないはずなんじゃが、北海道が鹿児島の辺りに、白いこれまた芥子粒みたいな繭が転がっている。蚕が身を捩って動いているのは、どうもこの繭の中に入るつもりらしい。上から目となって覗いているわしは、思わず笑ってしまった。何とも阿呆な蚕じゃ。繭は自分で作るもんじゃ。そんな遙かないくらも行かないうちに餓死してしまうような遠くにある朴の葉の上の芥子粒のような繭にヤドカリしなくても、我と繭になればいいが。鼻でせせら笑っていると、蚕はいきなりフランクフルトほどもある巨大なジェット飛行機になり、たちまちどこかへ飛び立ってしまった。芥子粒の繭の中では何だか誰だか慌てふためいているようじゃ。突然、石ばかりの冷たい町じゃ。そこをとぼとぼと歩いている。ゲートルのようなものを巻いて、フリルの付いたふわふわの女々しい上着を着て、頭には鳥の羽根の付いたハンチングかベレーのようなものを被っている白人の少年は、どうもわしじゃ。行き場のない孤児のようにあてどなく歩いているのは、どうもやるせない気持ちが胸を締め付ける。何所へ行くんじゃ、おい、おまえ玉ちゃん。どうも同じ所をぐるぐるぐる回っているのに気づかないらしい。自分で自分が情けなくなって、異形の南蛮人のようなカッコウをした自分につい呼びかけてしまった。その大声にも気づかずわしは相変わらず冷たい石畳の上を歩いている。何だかやけに大儀そうじゃ。見るとお腹が餓鬼のようにふくらんで垂れ下がり、ずーるつるずーるつると石畳を掃除しているんじゃ。その風船玉のようにふくらんで箒になってしもうたお腹が、いきなりマンホールの蓋を抜けてわしを残して消えてしまった。うわー、お腹がなくなった。さっきの蚕が身を捩っていたわけが分かった。あの繭はなくした自分のお腹じゃったんじゃ。大変じゃ、どうしよう。おろおろしていると、目の前の石の家のドアが開いて、親方が手招きしている。金髪でえらく太った鷲鼻の異人のおっさんなんじゃが、どうも親方に違いない。ああ良かった、とそのドアを入ると誰もいない。ただ大きな冷たい鉄の機械が目の前に高い天井を圧して聳え立っている。見たこともないのに、腸詰めを作る機械じゃとすぐ分かった。高い圧搾機械の取っ手の先の所で、谷先生が分厚い横文字の本を読んでいる。その脇で金髪の異人の親方が豚を捌いている。それが針の先ほどの狭さの所なんじゃ。今にも墜ちそうじゃ。二人とも剣呑なことをするもんじゃとはらはらして見ていると、ちっちゃなかわゆらしい女の子が、にゅっにゅっにゅっ、と腸詰めになってわしの帽子の鳥の羽根飾りの先端から次々に出て来る。そのひとつひとつがわしを見てウィンクする。そうじゃ、わしはハム作りの徒弟になって、ドイツで修行してるんじゃった。巨大ジェット飛行機になって飛び立ったのもこれで分かった。なるほど鴨南蛮に腸詰めが必要な訳じゃ。わしはすっかり納得して再び眠ってしもうた。

   第四章

 あれ、玉ちゃん、何だかほっとしたような、やる気に溢れたような、そんな顔になってるね。的前にいよいよ立たせてもらうことになったヘリゲルも、きっと今の玉ちゃんのような顔つきだったに違いない。新たな段階、一つ上の次元に踏み込んだんだから当然だ。

 そうじゃ、名人伝では、このことをを次のように展開させたんじゃな。

 「涙にくれて相擁しながらも、再び弟子が斯かる企みを抱くやうなことがあつては甚だ危いと思つた飛衞は、紀昌に新たな目標を與へて其の氣を轉ずるに如くはないと考へた。彼は此の危險な弟子に向つて言つた。最早、傳ふべき程のことは悉く傳へた。がもし之以上斯の道の蘊奧を極めたいと望むならば、ゆいて西の方(かた)大行の嶮に攀ぢ、霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅(かんよう)老師とて古今を曠しうする斯道の大家がをられる筈。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど兒戲に類する」と。

 ふん、うまい乗せようじゃなあ、「われわれの射の如きはほとんど児戯に等しい」か。紀昌が直ぐに西に向かって旅立ったはずじゃ。親方は乗せ方があまりうまくない。谷濁先生の方はなかなかじゃ。

 玉ちゃん、一人で何をぶつぶつ。

 あっ、いやそのー、この先のことが何だか変でわからんけー、せんせに伺おうかどうしようか迷ってたんじゃ。

 この道行きは書き出しと違って、「彼は只管に道を急ぐ。足裏を破り脛を傷つけ、危巖を攀ぢ棧道を渡つて、一月の後に彼は漸く目指す山巓に辿りつく」と言う風に、その苦しい旅程を描写している。凡庸な学者なら此所に、苦難をものともせずさらに向上しようとする紀昌の意気込みの激しさと、その先に待ち受けている修行の厳しさが、この表現によって示唆されているのだとでもコメントするだろう。

 ところがヘリゲルはと言うと、性根というのはなかなか抜けないものらしい。的に向かうとなった途端、またぞろ次のような質問を阿波師範に発してしまった。

 「勿論私は、はずさずに的に射当てるには弓をどう持てばいいのかと聞きました」。こんな事を聞くようでは、今まで何をしてきたのかまるで分かっていないことを自白しているようなものだ。当然のことながら、阿波研造は巻藁に向かうのと同じように的に対するのだと指示した。しかしヘリゲルは「当てるには狙わなければならない」と言って聴かない。

 だが玉ちゃん、ここが芸道の凄いところと言うか、実に分かり易いところだ。阿波師範は「いや、あなたは狙ってはいけない、的の事も当てる事もまたどんな事も考えてはいけない。弓を引いて矢が放たれるまで待っていなさい」と、言うだけでなく自ら実際にそれをして見せた。

 「そして、先生は弓を取って引いて射ました。矢は的の真ん中に当たっていました」。

ヘリゲルのこの簡潔な記述が、まさに、阿波研造が何の準備も計らいもなく、いとも無造作に弓を射た事を、そのままに示している。しかも、矢は的の中心に当たっている。驚きかつ、それでも怪しんでいるヘリゲルに対して、阿波師範は更に次のように語って聞かせた。

 「貴方は私のするのを良く観察したか?……私が目を殆ど殆ど閉じていたのを貴方は見たか」。

このくどいほどの言い方は、阿波研造が目を閉じていたも同然である事を、くどいほどの理屈屋のヨーロッパ人に強調したものだろう。この指示によってさすがのヘリゲルも、「私は先生に言われた通りにしようと思」った。しかし、「以前、私が拳銃射撃をやっていたとき、私は自分が『当てる事』に集中していたせいかも知れ」ない、「当てる事を諦めるという事がどうしても出来ませんでした」と述懐しているように、的を狙って当てようという意識がどうしても出て来て、そのように射ようとする。

 しかし、「それにも拘わらず、私の矢は外に外れて的には当た」らない。師匠から的を見てはいけない、ましてや的を射当てようなどとしてはならないと厳命され、厳命されたにも拘わらず、的を睨み、的に射当てようとして弓を引く。そうやって射ても、矢はまるっきり的を外れてあらぬ方向へ飛んでいくばかり。「この事が私には悲しく思われました」。

 ただ悲しいというレベルの心情ではない。的を狙わないで当てる事は固より出来ない、かといって的を狙って当てようとしてもまるで当たらない。にっちもさっちも行かない羽目にさえ陥らない。今まで苦心惨憺してやって来たことは、一体何だったのだろう。先生は一体私に何をさせていたんだろう。しかも、四年間も。……完全に肩すかしを食らったような、茫然とした心境だったに違いない。ましてや、折角師匠が指示してくれた「貴方は的を狙わずに自分自身を狙いなさい。そうすれば貴方自身を射当てて、同時に仏陀と的を射当てる」という言葉が指し示す方向すら、皆目見当もつかない。謎のような言葉だから無理もないが。しかし、信解の世界は、こう言うしか他に言いようがないに違いない。

 「私はどんなに熱心に稽古しても、悲しい事に的を射当てる事は出来ませんでした」。焦るヘリゲルは、また阿波研造にその態度を咎められる。「貴方は、当てる事で気を病んではならない。そうしていては〈精神的に〉射る事は学べない(これこそが入門時に阿波師範をしてヘリゲルの弟子入りを許す気にさせた、最も肝心な事であったはずなのに)……なるべく多くの矢が……的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすい事であります。貴方が、もしそんな〈技巧家〉になろうと思うなら、私のような〈精神的な〉弓術の先生は実際に不要になるだろう」。 折角、第一関門を突破したのに、ヘリゲルはその途端そこでにっちもさっちも行かなくなってしまった。師匠が折角老婆親切にしてくれた示唆も、ヘリゲルにとってはまるでとりつく島のない、実に面妖な、何が何だか訳の分からないものだった。 谷濁先生の解説を聞いていたわしは、またあっと思った。訳が分からん、不思議じゃと思っていた名人伝のこの場面じゃ。

 「氣負ひ立つ紀昌を迎へたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷くよぼよぼの爺さんである。年齡は百歳をも超えてゐよう。腰の曲つてゐるせゐもあつて、白髯は歩く時も地に曳きずつてゐる」。

的を見てはいけない、狙うのは猶いけない、自分自身を射当てるのだ、と皆目手のつけようのない指示を出されたヘリゲルの気持ちは、甘蠅老人を初めて見たこの紀昌の驚きとよく一致している。

 指先で軽くつついただけでこけてしまいそうな、よぼよぼのしかも羊みたいに気弱そうな眼をした老人。こんな爺が、師匠の飛衛が言った「われわれの射の如きは殆ど児戯に類する」という腕の持ち主とは、逆立ちしてたって思えない。すっかりはぐらかされた、そんな感じじゃったに違いない。

 玉ちゃんが感じた通りだ。甘蠅老人が、この対面の後一切何もせず、ただニコニコと笑っているだけだったなら、紀昌は果たしてどうしただろうか。実際、東洋の、日本の武術の師匠の場合、このような態度を取ったとする伝説、伝聞が実に多い。

 偉大な人間とは、どのような風体、態度をしている人の事を言うのだろう。ヨーロッパ人の場合、偉い人間はまさに他の人間とは段違いの、いかにも偉いだろうという態度、風体で出て来る。自己主張しなければ人間ではない、と言う文化が肌身に染み付いているから。偉人は偉人に相応しい風体で現れてくる。

 しかし一体どういう訳だろう。中国の偉人聖人賢者のイメージはこれとはまるで正反対なのだ。「大賢似大愚」などという言葉がそれを表している。かの有名な寒山拾得も一人は寺男で、もう一人は何処に居るとも知れない乞食の風体だ。日本の水墨画濫觴期の画家の一人も、それに倣って「大巧如拙」と言う名前をわざわざ自分に付けている。

 飛び抜けて偉大な人物のイメージが、どうしてこうもみすぼらしい正反対のものとなって出て来るのか。その由来は良くは分からない。これは私の勝手な憶測だが、東洋と西洋の、偉人賢人聖者に対する考え方、見方、理想像の違いにその理由があるに違いない。

 西洋の偉人賢人聖者は人前にめざましく出現し、群衆の先頭に立って彼らを導くものとしてイメージされている。然るに東洋の特に中国人が理想とした偉人、為政者はそうではない。玉ちゃんも知っているだろう、「鼓腹撃壌」という有名な故事。 中国古代の聖帝、堯のことじゃ。王道を行く素晴らしい政治をしているんじゃが、宮廷の周りの者にあれこれ尋ねても、世の中がうまく治まっているのかどうか、腑に落ちる答えをしてくれる者が誰もいない。仕方なくある日、みすぼらしい乞食の格好をして都城に出てみた。するとある一人のおっさんが、ちょうど一日の仕事が終わり道ばたで憩っていた。腹鼓を打ち地面をたたいて拍子を取り、次のような歌を歌っていたんじゃ。

朝日が昇れば出て耕し、夕日が沈めば憩う。

喉が渇けば井戸を掘って飲み、

一日働いて疲れりゃ家に帰って眠る。

何だかこの世の中には天子様とやら

お偉いお方が居なさるという話じゃが、

そんな人の事などこのわしには

とんとあずかり知らんことじゃわい。

当の天子様が目の前にいるともつゆ知らず、こんな脳天気な歌を歌っている。これが世が世なら、即、投獄、百叩きならぬ千叩き万叩きまでしても許し難い不敬罪、と言うところだが、なんと、この堯帝はその禿頭のとっつぁんの歌うのを聞いて、初めて愁眉を開いた。ニッコリと笑って、わしの政治は間違っていなかったと安心して宮殿に帰ったという話じゃ。

 群衆、俗衆の上にいかにも目立つように立って、華々しい働きをするというのとはまったく逆の姿だ。そのイメージは時代を下ると、仏教の方では「灰面土頭」と言う言葉で現れてくる。本物の宗教者、聖人は民衆の中にあって、顔は灰と煤だらけ、頭は土埃にまみれて一心不乱に働いているという下積みの姿だ。殆ど誰からも注目されない。裏方の働きをすることこそが本来の姿だと言う。例えば、布袋様。どこぞの世界の、宮殿に住んで、きんきらきんに着飾って、聖人でございとやっているのとは、まるで異質だ。

 ところが権力というものはどうも仕方のないものだ。例外なく覇道の輩だから、どうしても自分にない、しかも全ての民衆を自分に信服させるような仕掛けが欲しい。そこで、この宗教者を祭り上げる。祭り上げられ、権力の手先になっているのに、権力者を指導していると自惚れ、きんきらきんに飾られて悦に入っている程度の坊主は、宗教者でも何でもない。珍しく谷濁先生の語気が荒くなった。それはともかく、まさにこの、東洋の理想像が、気負い立つ紀昌の前に現れた。

 うーむ、これが本物の名人の姿なんじゃ。すると、名人とはいわれているが、あさひやの親方はまだまだだな。怒ると鬼みたいになる。それに比べると谷濁先生の方が、何だかとぼけている分、本物に近いのかも知れん。じゃが、ここからじゃ。読んでいてあんまり呆れるほど吃驚して、不思議で不思議で仕方ないほど感心してしまう場面は。

 「大聲に遽だしく紀昌は來意を告げる。己が技の程を見て貰ひ度い旨を述べると、あせり立つた彼は相手の返辭をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋の弓を外して手に執つた。さうして、石碣の矢をつがへると、折から空の高くを飛び過ぎて行く鳥の群に向つて狙ひを定める。弦に應じて、一箭忽ち五羽の大鳥が鮮やかに碧空を切つて落ちて來た」。老人はまるで驚かない。

 「一通り出來るやうぢやな、と老人が穩かな微笑を含んで言ふ。だが、それは所詮射之射といふもの、好漢未だ不射之射を知らぬと見える」。それじゃ、まるで子供の技だと、果たして飛衛が言ったとおりのことを言うんじゃ。

 「ムッとした紀昌を導いて、老隱者は、其處から二百歩ばかり離れた絶壁の上迄連れて來る」。そうだ、玉ちゃん。ヘリゲルは巻藁を相手に阿波師範に認められる「良い射」をする「無術の術へ至る道」は体得した。ところが、前に見たとおり、的を相手にする肝心の段になってそれをころっと失ってしまう。この「ムッとした紀昌」は、折角的前に立たせてもらったのに、阿波師範の「的を狙ってはいけない」という指示に対して、「当てるには狙わなければならない」と口答えしたまさに、ヘリゲルの気持ちそのままだ。それにしても凄いなあ。ここで甘蠅老人は、彼我の境位の天地懸隔の違いをまざまざと見せつけるんじゃ。

  「脚下は文字通りの屏風の如き壁立千仭、遙か眞下に糸のやうな細さに見える溪流を一寸覗いただけで忽ち眩暈を感ずる程の高さである。その斷崖から半ば宙に乘出した危石の上につかつかと老人は駈上り、振返つて紀昌に言ふ。どうぢや。此の石の上で先刻の業を今一度見せて呉れぬか。今更引込もならぬ。老人と入り代りに紀昌が其の石を履んだ時、石は微かにグラリと搖らいだ。強ひて氣を勵まして矢をつがへようとすると、丁度崖の端から小石が一つ轉がり落ちた。その行方を目で追うた時、覺えず紀昌は石上に伏した。脚はワナワナと顫へ、汗は流れて踵に迄至つた。老人が笑ひながら手を差し伸べて彼を石から下し、自ら代つて之に乘ると、では射といふものを御目にかけようかな、と言つた」。

 此所は正に情解的表現の好例。「壁立千仞」は常套文句じゃが、断崖が壁のようにそそり立つこと、その高さをこのように表現する中国的表現の典型じゃ。山が高いこと、あるいは谷が深いことを表す。一尋は中国では六尺五寸、日本では六尺じゃから、およそ一・八メートル。千仞は一八〇〇メートルから二〇〇〇メートルとなる。果たしてこんな深い、あるいは高い断崖絶壁があるものだろうか。それよりも何よりも二〇〇〇メートルという単なる数字からは何の実感も湧いてこない。それが、「遙か真下に糸のような細さに見える渓流をちょっと覗いただけでたちまち眩暈を感ずるほど」と表現されると、読者も直ちにその高さ、深さを実感し、クラクラする。

 読んでいて、思わずわしも目をつぶってしまった。これが情解なんじゃ。その断崖絶壁に乗り出したぐらついて今にも落ちそうな大石。ようよう登りはしたが、足が震えてまともに立てない紀昌に対して、老人の方はつかつかと駆け上がっている。まるで造作無しじゃ。的前に立って、どう狙って射るのかというヘリゲルに、「狙ってはいけない」と言うことをいとも無造作に実地にして見せた阿波師範と同じじゃ。どういうことじゃろう。ただ目を丸くして千仞の谷底を覗いていると、谷濁先生が例のあんちょこを取り出して来てこう言った。この場面を哲学的、知解的に理解すると、日本の弓術の、前にちょっと引用した所の続きになる。

 「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在る----これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます。私は先生の言われた通りにやってみようと試みた。しかし言われたことの幾分かしかできなかった。的をまったく視野から去ること、したがって狙いを定めるのを諦めるということは、私にはどうしてもできなかった」。

 「目をほとんど閉じていた」と言うのは、宗教者の瞑想にも言えることだ。例えば仏像。目が半眼の形に造形される場合が多い。沈思、瞑想に入る時に瞼を徐に下ろして行って、ほとんど閉じられる直前の状態にする。と言うよりも、人によっては視線を眉間に集める(仏教では眉間に第三の目があるとする。お釈迦様の眉間にある白毫がその第三の目を表している)、或いは視線を臍下丹田に集中する。或いは結跏趺坐して下腹の所で組んだ両の掌に集中する。また人によっては、座っている目の前一歩の所に視線を落とす、さらにまた、目の前に置いた香炉の線香の火に視線を集中する等々。いろいろに言うが、結局は同じことだ。視線と言うか意識と言うか、それをこのように集中させると、自然に「半眼」になる。つまり「目をほとんど閉じた」形になる。そしてこの半眼の状態になると、不思議なことに瞬きをしなくなる。先生の説明を聞いて、わしはまた、あっと思った。『名人伝』の紀昌が始めに修行した「瞬きせざる」事と一緒じゃ。と振り返って驚いていると、谷濁先生は次のように話を続けた。

 このようにして「心を深く凝ら」すと自分と対象とが一体となる。自分と矢と的とが一体となれば、それこそ正に、自他が共に「不動の中心」に位置することになる。ここにいるからこそ、ぐらぐらする危石に乗っていても、本人は微動だにすることがない。「心を深く凝らす」事によって初めて「達せられ」る「有と非有の不動の中心」に甘蠅老人は立っているのだ。「的をまったく視野から去ること」も「狙いを定めるのを諦める」ことも、「どうしてもできなかった」ヘリゲルと、大石に上った途端にわなわなと震えだした紀昌は、まったく同じレベルで、これじゃあどうしたって怖くて仕方がない。いわば「有」しか見えていない。ヘリゲルもそうだ。だから直ぐ、紀昌は次のような質問をする。

「まだ動悸がおさまらず蒼ざめた顏をしてはゐたが、紀昌は直ぐに氣が付いて言つた。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だつたのである。弓?と老人は笑ふ。弓矢の要る中はまだ射之射ぢや。不射之射には、烏漆の弓も肅愼の矢もいらぬ」。

 狙わずには当てられないという意識から遂に、ヘリゲルは脱却することが出来なかった。これは紀昌が弓矢がなければ射られないと驚いたのと一緒である。ヘリゲルは思いあぐねた末に、「そこである日先生を訪れて、自分にはこの狙わずに中てるということが理解も習得もできないわけを申し述べた。先生はまず私を宥めようとした。しかし自分にはできないという意識が、私の心に深く食いこんでいたので、私たちの話はなかなかうまく進まなかった。すると先生はついに、私の行き悩みは単に不信のせいだと明言した」。これまであんなに心を砕き、疑いようのない実地の手本さえ幾度も示して見せていたのに、何という仕方のない弟子だろう。尤もわれわれの三つ子の魂に染み付いたもの、先入見とは誰でも皆こんなものだ。目の前に明々白々な事実があっても見えない、見ようともしない。

その晩、変な夢を見た。わしは何所かを歩いている。何所を歩いているか皆目分からん。周りはほの暖かい薄明るい光に満ちている。まるで周囲ばかりか自分が歩いている地面すら見えない濃い霧の中にいるようじゃ。うすら明かりが全体に均等に充ち満ちて、右も左も前も後ろも上も下もまるで見当が付かん。不安な気持ちで前と思われる方に向かって歩いている、はずなんじゃが、距離感も丸でないけー、歩いているのか進んでいるのかすら定かではない。だんだんだんだん不安な気持ちが膨らんでくる。それがいきなりわしの胸を飛び出して目の前に大きな強烈なサーチライトで照らしたような円に描かれたと見ると、いきなり「無」という字が墨黒々と浮き出てきた。そうか、何もないんじゃ。何もないところをわしは歩いているんじゃ。しかし何でこんな所を歩いているんじゃろう。と思っていると、何だかさっきと逆に歩いているような気がしてきた。うすら明かりのほの暖かい空間を歩いていたはずなのに、いつの間にか、真っ暗なしかし同様に上も下も右も左も何所も分からない闇の中を歩いている。嫌じゃなあ、怖いなあ。しかし何所にも当てが見えないから、そう思いつつ何だかやはり歩いてはいるようなんじゃ。すると突然、どこかの背後からさっきの強烈でどでかい探照灯が暗闇の目の前をまん丸な満月のように照らし出した。その明るい円の中に黒々と「有」という一字が浮き出てきた。なんじゃ、さっきは「無」があって、今度は「有」がある。待てよ、「無」はないから「無」じゃ。じゃが「無」の字があったんじゃ。今は目の前に「有」がある。しょむない。わしはどっちに行っても文字の有る世界を目当てに訳も分からず歩いていたんじゃ。と思った途端に視界が開けた。開けたと言っても何か景色が見えるわけではない。何も見えないが、たしかに開けたという感覚がする。なんじゃ、何も見えずとも開けたはずじゃ。わしはわしの中にいたんじゃ。わしの中の明と暗の世界、わしの中の有と無の世界、わしの意識がわしの体内を歩いていたのか、或いはわしのからだがわしの意識の中を歩いていたのか、どっちかは分からん。分からんが、わしの心にも体にも「有」というものがあり「無」というものがあり、有るものだけが有り、遂に「無」というものは無いと言うことが分かった。妙に悲しい安心感が湧き出して来た。わしはこんなもんなんじゃ。と思っていると、なんじゃ電気を付けたまま眠ってしもうたんじゃ。いかん、親方にどやしつけられる。スイッチパッチン。暗闇が、帰った。

     第五章

 ヘリゲルが焦るのはある意味で仕方のないことであった。本人も述懐しているように、「私がいくら熱心に骨を折っても、その結果が現れないと言うことが、私の心を重くするようになりました。勿論私は、十年二十年と弓を習っていて、しかも相変わらず弟子で居る人が少なくないと言うことを知っていました。しかし、私の日本滞在には限りがあるので、私は長い将来を頼りにすることは出来ません」。

 それで思いあぐねてある日師匠を訪ね、ついついぐじゃぐじゃ言ったんじゃな。玉ちゃん、それについては面白い余談が日本の弓術にある。

 「私は、別の方で聞いたのであるが、先生は私という五月蠅い質問者を満足させ得るものを引き出し得るかも知れないという希望を持って、その頃日本の哲学書を数冊手に入れたと言う事でした。その後暫く立ってからそれらの本を彼方へ押しやって、かような事柄を職業としてやらねばならぬ私から、『精神的』に碌な事は期待できない訳がだいぶ分かってきたと、漏らしたそうです」。

 そうじゃ、ヘリゲルという人は、東北帝大で哲学かなんかを教えていたんじゃ。それにしても「彼方に押しやった」というのは、阿波師範の気持ちがそのままに表れていて、面白いなあ。哲学はあくまでも言語に頼り、論理的な追求をする。「信」という、宗教的な実践とはまるで次元の違う、思弁的な営為だ。しかしまさに、ここに至ってヘリゲルは言詮不到の水際に立たされてしまった。理屈で「神」は現前しない。宗教の根底には、それが何教だろうと「信」が存在する。袋に入ったネズミのようになってしまったヘリゲルに、それは「不信」のせいだと阿波研造が言ったのは当然の事だ。普通なら、ここで師匠は去ってしまう。来るものは拒まず、去る者は追わずが禅宗の精神だから。しかし阿波師範は、ここでも老婆親切を尽くす。

 「『的を狙わずに射中てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手ではあるが』----そして先生は私に、その夜あらためて訪問するようにと言われた」。

 「使いたくない手」とは、たとえば「不信の者に、神を見せる」と言うことだろう。不信の者に神を見せるとどうなるか?彼らは信仰心に目覚めるどころか、たちまち神を当てにするようになる。凡俗な我々は皆そうだ。神に何でもお願いして、自分は左団扇で暮らそうという良からぬ了見を必ず起こす。勿論、神は我々のそんな浅はかな望みを叶えはしない。するとどうなる?神の実在を目の当たりにしたにも拘わらず、俗衆は今度は神を口々に非難し始めるだろう。これは確かに絶対に「使いたくない手」なのだ。

 えっ!神様はやはりおいでなさるんじゃ。玉ちゃん、そう短絡しては困る。私は比喩的に言っただけだよ。比喩的、とはどう言う事じゃろう。言えば、まあ、情解と言うことかな。パッと判ったことは確かじゃ。

 ところで「弓は……」と尋ねた紀昌に、その技がまさに「児戯に類する」事を甘蠅老師がまざまざと見せつけたのが、名人伝では次の場面じゃ。

「丁度彼等の眞上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を畫いてゐた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿を暫く見上げてゐた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがへ、滿月の如くに引絞つてひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて來るではないか。

 紀昌は慄然とした。今にして始めて藝道の深淵を覗き得た心地であつた。」

これは文字通りこのままのものとして心に落とす。情解のレベルでしっかりと感じられなければ、名人伝を読む意味がない。今時の若者だと、端から信用せず、曲芸やマジックの類、或いはトラコンポールとか言う漫画に出て来るメカメカ波のようなものだと、こちらは本気で信じたりする。いずれこの表現の真意を理解すること、月とすっぽん、天地懸隔だ。小説家の苦心の表現そのものがもたらす効果を、その通りに感受することがまるで出来ない。出来ないから、これは単なる荒唐無稽の面白いお話、漫画としか認識できず、他の娯楽作品と同様、直ぐに別の刺激的な面白い話に目が移って行ってしまう。ここは「始めて芸道の深淵を覗いた」紀昌の「慄然とした」気持ちをそのまま読む者が感じ取れなければならない。そのとき始めて自分の中の何か、真実のものが動く。

 だってそうだろう、玉ちゃん。自分にとって一番肝心な、一番大事なことは必ず自分自身でやらなければならない。単純な話が、ご飯を食べる、トイレに行く。面倒だからと言って、他人に代わってもらうわけにはいかない。毎瞬常にしている呼吸はなおさらだ。生きるために必要不可欠なことじゃから、否応なしに自分自身でするしかないんじゃ。だとしたら、例えば、ある人にとっては「信仰」はそのようなものだろう。ヘリゲルにとっての「弓術」はそのようなものであるはずだったし、あるべきだった。

 だが彼はこの、自分が生きるために必要不可欠な道を踏み外しそうになった。せっかく弓道という人生に、しかもはるばるドイツからやって来て、おぎゃあと生まれ、苦心に努力を重ねてやっと薪藁の段階を卒業し、的前に立てるようになって、さあこれから自分の本当の人生が始まるという段になって、自らの命を絶ってしまおうと言うんじゃ。この、いわば命の瀬戸際に立ってしまったヘリゲルに、阿波研造の老婆親切は遂に禁じ手を使わせたのである。それは阿波研造の慈悲心の発露と言っても良いかもしれない。求めるものにしか扉は開かれない。扉を自分で敲かなければならない。敲くだけでは駄目だ。自分で推して中に入らなければならない。信解の世界はこの時、初めて姿を現して来る。何だかお説教じみてしまったようだ。ともかく玉ちゃん、その夜阿波師範の家を再訪したヘリゲルは、次のような場面を目撃することになる。これは『日本の弓術』の圧巻の所だから、ちょっと長いがそのまま読んであげよう。

 「九時頃私は先生のお宅へ伺いました。私が先生の所へ案内されると、先生は私に腰掛けさせたまま顧みません。暫く経ってから先生は立ち上がって、私について来るように目配せされました。

 私たちは先生の家に隣り合っている道場へ入っていきました。先生は編み針のように細長い一本の線香に火をともして、それを中程にある的の前の砂に立てました。それから私たちは射る所へ来ました。

 先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見えました。そして線香のかすかに光っている点は極めて小さなもので、やっと見えるか見えない位でした。先生は相変わらず何も言わずに自分の弓と二本の矢を取りました。先生は一本目の矢を射ました。

 それは音で命中したことがわかりました。二本目の矢も音を立てて打ち込まれました。先生は私に、先生の射た二本の矢を見てくるように言いました。第一の矢は見事に的の真ん中に立っていて、第二の矢は第一の矢の根に当たって、それを二つに割いていました」。

 ヘリゲルは事実を淡々と記述しているが、的に当たったこの二本の矢を確認したとき、それこそ総毛立ったに違いない。まさに「藝道の深淵」を覗いて「慄然とした」紀昌そのものである。しかし、彼が抜きがたい理屈屋であることを肌身に感じている阿波師範は、矢を取って戻って来たヘリゲルに、次のように語って聞かせた。

 「私はこの道場で三十年この方稽古をしていて、暗いときでも的がどの辺にあるかは知っているはずだから、一本目の矢が的の真ん中に当たったのはさほど大した出来栄えでもない、と貴方は考えられるかも知れない。それはそう考えられるのが正当に違いない。しかし、二本目の矢はどう見られるか。これは『私から』出たものでもまた『私が』当てたものでもない。そしてこんな暗さで一体狙うことが出来るものかどうかよく考えてご覧なさい。それでもまだ貴方は、狙わずに当てられないと言い張れるのか」。

 さすがのヘリゲルもここまで徹底的、絶対的な事実と言葉を突きつけられて、「狙わなければ当てられない」と口答えした自分の卑小さに、冷や汗を流したに違いない。ヘリゲルは次のように述懐している。

 「それ以来、私は疑う事も、問う事も、思い煩う事もきっぱり諦めました。私は、その結果がどうなるかなどと頭を悩まさずに真面目に稽古を続けました。夢遊病者のように確実に的を射当てるように、生きている間になれるかどうかと言う事さえも私はもはや考えませんでした。それは『私』の手中にあるのではない事を、私は分かるようになっていました」。

 うーむ、どうも信じられん。なら公園の脇で小屋掛けしてやっている見世物の手品か奇術かなんかと違うんかのう、せんせい。だいいち、夜になってからまた来るようにと言ったのが怪しい。玉ちゃん、何を言ってるんだ。それは「見る」事を去り、「私」を去る事を実地に示すためだろう。百歩どころではない万歩譲って、これを奇術だと言って一体何の意味があるのか。ただ観客がきゃーきゃー言って驚き騒ぎ、大喜びするだけじゃないか。それで観客自身がどうにかなる訳じゃない、せいぜい日頃の鬱憤の発散程度のことだろう。ヘリゲルは正に、生きるか死ぬかの瀬戸際にあったのだよ。そうじゃった。あんまり不思議なので、ついつい阿呆なことを言ってしもうた。

 神と対置する確固とした個我の意識を持ち、それを唯一のレーゾンデートルとして生きる、自己主張の権化のような西洋人は、もはやここには居ない。居るのは一言半句の経文も覚えられず、しかし黙々と街の掃除を倦むことなく続けた、パンタカのような愚直な東洋人である。ここにまで到って、ヘリゲルの射には、阿波師範が完全な同意を示す矢が、次第にその数を増していくようになった。

 「弓を引く前には、まず初めの儀式が行なわれる。それはきまった歩数だけ進んで、射手が次第に的と相対する位置に来るのであるが、途中で立ちどまっては深く呼吸をする。それから射手が弓を引く構えをすれば、その時すでに、完全な沈思に成功する程度まで精神が統一されている。一旦弓を引き絞れば、沈思の状態は決定的となり、引き絞っていればいるほど沈思は深められ、その後の一切は意識の彼方で行なわれる。射手は矢が放たれた瞬間に初めて、ふたたび、しかも漸次にではなく不意に、我に復る。忽然として、見慣れた周囲が、世界が、ふたたびそこに在る。自分が脱け出していた世界へ、ふたたび投げ返された自分を見る。自分のからだを貫き、飛んで行く矢の中に移ってはたらきつづけるある力によって、投げ返されたのである。このようにして射手にとっては、「無」と「有」とは、内面的にはどんなに異なっていても、きわめて緊密に結びつけられるのみならず、両者はたがいに頼りあっている。有から無に入る道は、かならず有に復って来る。それは射手が復ろうとするからではなく、投げ返されるからである。射手のそのような経験のそのままの所見は、どのような思弁によっても説明し切ることはできず、せいぜい言い宥められるだけである。」

 だが、ここまで来ると知解の人ヘリゲルの言葉も既にそれを離れ、信解の世界をわずかに指し示す「有」に過ぎないものとなってしまっている。ヘリゲルの言葉や論理をいかに辿っても「そこ」に至り着く事は遂に出来ない。

 駄目じゃ、最後の最後まで来とるのにもう何も分からん話になってしもうた。玉ちゃん、何もそう悲観することはない。ヘリゲルがこのようなことを言えるようになるまでに、どれだけの修行と時間とが必要だったかを考えてご覧。

 甘蠅老人によって斯道の奥深さに慄然とした紀昌は、その後「九年の間、この老名人の許に留まった。その間如何なる修行を積んだものやらそれは誰にも判らぬ」。甘蠅老人の許での修行は尋常一様のものではなかった。その様は筆に上せられるようなものではないか、あるいは、凡庸な目で見れば何の変哲もないような日常であるのかもしれない。信解の世界こそ明白だという。しかし、その明々白々なものが、凡人には見えない。小説家といえどもただその上っ面を描けるにすぎない。ここに至って、小説家はその筆を控えた。「射手のそのような経験のそのままの所見は、どのような思弁によっても説明し切ることはできず、せいぜい言い宥められるだけである」。知解の人ヘリゲルが書ける、ぎりぎりの所。ここにこそ正に小説家の腕の見せ所があるはずだが。その「言い宥め」さえせず、実に簡潔な素っ気ない記述で、むしろ常套的な書き方を小説家はしている。

 「九年間」というのは、達磨の「面壁九年」。また中国的に解釈すれば、「九」は陽数の極みで、ここから新たな次元の展開が始まる。修行が成就し、新たな時節が到来したことを象徴した数字だと言うことも出来る。『日本の弓術』はここが到達点で、その先は我々から見れば書かなくても良いような日本人論、日本文化論になって終わっている。『名人伝』では、勿論後日談がなくては。修行の結果紀昌は一体どうなったのか、真の名人とはどういうものなのか、誰も判らないことになって、作品が竜頭蛇尾どころではない。読んだ人間が「金返せ」と怒り出すじゃろう。そこで、『名人伝』のこの最後も面白いんじゃがとんと訳の分からん所じゃ。都に戻ってきた紀昌はこうじゃった。

 「九年たつて山を降りて來た時、人々は紀昌の顏付の變つたのに驚いた。以前の負けず嫌ひな精悍な面魂は何處かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶の如く愚者の如き容貌に變つてゐる。久しぶりに舊師の飛衞を訪ねた時、しかし、飛衞はこの顏付を一見すると感嘆して叫んだ。之でこそ天下の名人だ。我儕(われら)の如き、足下にも及ぶものでないと」。前に見た、典型的な東洋の賢者、名人の容貌じゃ。凡人の窺い知ることの出来ぬ、しかも最も肝心な「信」の世界は、ただこの木偶のような愚鈍のごとき顔つきで示されるばかりだ。

 こんな顔つきじゃったら、何の造作もいらず、もともとしちょる。わしなんかいつも親方から阿呆面してぼけっとしとるんやない、とどやしつけられとるがな。

 玉ちゃん、確かに不思議さ。しかし、鈴木大拙という高名な仏教学者が、次のようなことを常々言っている。「花は、花ではない、故に花である」。何の事やら、屁理屈爺の蒟蒻問答じゃ。そうか、玉ちゃんにはそうとしか思えないか。だったらこちらの方がまだ判るかな。玉ちゃんの得意な漢詩文だ。「廬山煙雨浙江潮 未到不消千般恨 得到還来無別事 廬山煙雨浙江潮」。有名な中国宋代の蘇東坡の詩だ。えっ、やっぱり何の事やらさっぱり判らん?要するに、木偶が木偶のままではただの木偶なのであって、木偶が一旦木偶でなくなって、また木偶に戻ると言うところに、この名人伝で記述されている紀昌の面目があるということだ。

 うーむ、なんだか、わかったようなわからんような。また、今夜夢でうなされそうじゃ。玉ちゃん、眠そうだな。今日はここでお開きにしようか。

 ☆

その晩、変な夢を見た。えらい未来都市じゃ。手塚治虫の漫画そのままで、高速道路が縦横無尽、斜めに上下に走っていて、その上ジェットカーと言うか、何と言うか、車輪が無く自由自在に空中を行き来する飛行車までアリンコのように右往左往している。勿論辺り一面のきんきらきんの摩天楼じゃ。わしは肺ガンの元だと言うのも知らず、ハバナの葉巻をやけにすって煙を辺りにまき散らしている。何だかどこかのオフィスの社長室らしい。一枠が二階建てほどもある高く大きな窓から下界を眺めて、悦に入っている。見渡す限りの世界がみーんなわしのものなんじゃ。えらい出世じゃ。いったいどうやったんじゃろう。と思っていると、親方が出前にやって来た。蒸籠を開けてみると山吹色の蕎麦が盛ってある。わー、新商品じゃ。こんなん秘密にしっとったんじゃ。親方も水くさいなー。さて頂こう。と思ったら、親方も蕎麦も消えてしまって、何だか古くさい、見たような見ないような田舎の田圃の中じゃ。わしは稲の刈り株になって、今朝の霜にかじかんでおる。きっとさっきの葉巻の吸い過ぎでこうなったんじゃ。と情けなく思っていると、高下駄を履いた谷濁先生が、田圃の泥濘の中を造作もなくすーと近づいてきて、わしの稲の切り株をすぽっと抜いてしもうた。わー、死んでしまう。わしは驚いてじたばたするが、谷先生はいっこうに意に介さず、その株の稲の先に火を付けて、煙草に吸っている。わしの煙草の切り株はどんどん燃えて灰になっていく。その灰がふらふらと空中に飛散して、一粒一粒が金粉銀粉となって輝きだした。うわー、わしがあんなんじゃ。無数に燦めくわしを見て、わしは感動に震える。じゃが、一体わしはどれなんじゃろう。えらく嬉しいんじゃが、えらく不安なんじゃ。その時「腰を入れろ」という親方の大きな声が聞こえた。わしは吃驚して条件反射じゃ、気をつけの姿勢になった。と思ったら、ああやっぱりじゃ。さっきの未来都市の社長が戻ってきた。じゃが、その社長さんはわしではない。親方でもない。谷先生でもない。誰だか分からない、見たこともない人物じゃ。男のようでもあるし女のようでもある。その社長さんがわしを手招きしている。なんじゃ、出前の注文か。合点して店に戻ろうとするが、あれ?店は何所じゃ。驚いて地上何十階上なのか何百階なのか分からない社長室からビルの階段を必死になって駆け下りる。やっと駆け下りたと思ったら、既に百年も経ってしまったんじゃ。ああ、もう出前が間に合わない、と落胆していると、ひょいとビルの名前が目に入った。「ひよしや」という見慣れた古びた看板が超近代的なビルヂングに貼り付いておる。なんじゃ、もう出前はとうに間に合ったんじゃ。わしは胸をなで下ろして懐かしい岡山の在の家に帰った。

     第六章 

 結局、中島敦の『名人伝』は、谷濁先生に言わせれば、禅宗の「十牛図」に沿った構成になっておるんじゃそうな。「十牛図」は、禅宗の悟りに至る修行の階梯を、十段階に分けて説明したものじゃ。十の階梯は以下の通り。一、尋牛 二、見跡 三、見牛 四、得牛 五、牧牛 六、騎牛帰家  七、忘牛存人  八、人牛倶忘 九、返本還源 十、入躔垂手。これは勿論、「牛」が「悟り」の象徴になっているんじゃ。

 第一の尋牛。これは『名人伝』じゃと、紀昌が天下第一の弓の名人になろうと志して、師匠となるべき人物の消息を知った事じゃ。第二「見跡」は、実際に飛衛に逢った事になるんじゃ。ここで斯道のなんたるかその一端を垣間見る。第三は「見牛」じゃ。甘蠅老人に出会って、初めて自分が極めようとしている斯道の奥深さ、その実体を目の当たりにする。第四「得牛」、第五「牧牛」は、実に簡明に「九年の間、この老名人の許に留まった。その間如何なる修行を積んだものやらそれは誰にも判らぬ」という記述によって示されている。つまり、名人たるべき技を習得し、それを日常茶飯に、無意識裡に行えるまでに、自分の体そのもの、精神そのもの、行いそのものとなるまでに修行し尽くしたことを示唆している。この階梯が徹底されないと、それまでの苦心惨憺の修行があっという間に元の木阿弥、前に見たヘリゲルのようになってしまう。せっかく「無術の術に至る道」である「良い射方」を体得したはずなのに、的前に立つ段になってあっという間に、折角体得したものをころっと失ってしまったではないか。第六「騎牛帰家」は、名実共に名人となった紀昌が都に帰って来た、俗世間を去っていた人間が、また俗世間に戻ったことに相当する。第七「亡牛存人」は、『名人伝』の後日談の次の記述。

 「所が紀昌は一向に其の要望に應へようとしない。いや、弓さへ絶えて手に取らうとしない。山に入る時に携へて行つた楊幹麻筋の弓も何處かへ棄てて來た樣子である。其のわけを訊ねた一人に答へて、紀昌は懶げに言つた。至爲は爲す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。成程と、至極物分りのいい邯鄲の都人士は直ぐに合點した。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇となつた。紀昌が弓に觸れなければ觸れない程、彼の無敵の評判は愈々喧傳された。」

 第八「人牛倶亡」は、やはり『名人伝』のさらに後の記述。「雲と立罩める名聲の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益々枯淡虚静の域にはひつて行つたやうである。木偶の如き顏は更に表情を失ひ、語ることも稀となり、つひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。『既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。』といふのが老名人晩年の述懐である」。なんだ、それじゃまるでつまんないじゃないか、という読者のブーイングに応えようとしたのでもあろうか、小説家は次のようなエピソードを僅かに伝えている。

 「樣々な噂が人々の口から口へと傳はる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡つてゐる間に體内を脱け出し、妖魔を拂ふべく徹宵守護に當つてゐるのだといふ。彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乘つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人舁(げい)と養由基の二人を相手に腕比べをしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと。紀昌の家に忍び入らうとした所、塀に足を掛けた途端に一道の殺氣が森閑とした家の中から奔り出てまともに額を打つたので、覺えず外に顛落したと白状した盗賊もある。爾來、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなつた」。

 この最後の所は谷濁先生に言わせれば、小説家の至らないところで、むしろ「人と違って賢い渡り鳥は、彼の家の上空を必ず通るようになった」と書くべき所なんだそうじゃ。

 「一道の殺気が奔り出て来て」コソ泥の額を打ったと言うのは、強ちあり得ない話でもない。阿波師範と同時代になるかな。やはり独自の世界的な武術を創始した武道家の逸話にこんなことが伝えられている。又聞きだから正確ではないがね。明治・大正という時代は、西欧文明の大津波をまともに食らって、大半の日本人が自分の足腰では立つことが出来なくなってしまった。が、一方それを逆に大きなエネルギーにして、東洋の伝統に深く根ざした、西欧文明からは逆立ちしたって出て来ない独自のものを創始した日本人が、ごく僅かだが出現している。尤もこれも昭和生まれの人間になると殆ど跡を絶ってしまうがね。わしは、何のことやらという顔をして聞いていたらしい。

 先生は気づいて、そうか、その逸話のことだった。内弟子になって修行していた弟子たちの話だ。何をどうやってもどう工夫してもその師匠にほんのちょっとも勝つことが出来ない。おまけに数人で総掛かりに掛かってもあっという間に全員投げ飛ばされてしまう。自分は強いと、それなりに天狗になっていた連中だから、どうも合点がいかない。そこで、いくら師匠でも寝入った所を襲われればぐうの音も出ないだろう。これで少しは憂さが晴れる、と言うことで示し合わせてある晩、夜襲を決行した。師匠の高いびきを確認して、数人の弟子たちがそろそろと、猫が歩くよりももっと猫のようになって、廊下づたいに師匠の部屋へ近づいて行った。ところが、寝室になっている部屋の遙か手前の所で、「誰じゃ」という師匠の鋭い誰何の声を浴びてしまう。驚いて這々の体で逃げ帰った彼らは、熟睡していなかったんじゃないか、誰かが夜襲の噂があることを先生に告げ口したのではないか、などとあれこれ無意味な詮議をしたのだが、それでも、何日も続けてこの夜襲を繰り返せば、さすがの先生もへこたれてついには降参するに違いない、代わり番こで続行しようと言うことに衆議一決した。翌晩はもっと慎重に斥候を立てて先生が熟睡したかどうかを確かめた上でそろそろと近づいた。しかし、結果は同じであった。昨晩とほぼ同じ所でやはり、鋭い誰何の声を浴びてしまう。三日、四日、五日、六日、何日続けても同じことである。音を上げてしまったのは弟子たちの方で、遂に師匠に降参することにして、謝りに行った。序でに、どうしてわれわれの襲撃が察知できるのか不思議でならないと疑問を呈すると、師匠は、わしも別に特別なことをしているわけではない。ただ普通に寝ているだけだ。おまえさん方がある所まで近づいてくると、寝ていても自然とそれに気付くのだというようなことを語ったそうだ。おそらく、「気の結界」とでも言うべきものが老師の周りに自然と張り巡らされていたのだろう。近代の名人でもこの通りなのだから、紀昌の場合、奔り出た一道の殺氣に、侵入しようとしたコソ泥がまともに額を打たれて顛落したのは当然なんじゃ。

 第九「返本還源」、第十「入躔垂手」。これは第九が、紀昌の逝去という形で書かれているだけで、第十は殆ど書かれていないらしい。やはり谷濁先生に言わせれば、『名人伝』は小説であって、宗教ではないからじゃそうじゃ。信解という観点に立てば、むしろ、第九、第十こそ一番大事な所らしい。ところが紀昌の最期は次のように素っ気なく語られているだけじゃ。「甘蠅師の許を辭してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去つた」。

 第十の「入躔垂手」に関する『名人伝』の記述を挙げれば、紀昌の最期の記述に続く次の記述。「その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かつた。口にさへしなかつた位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としてはここで老人に掉尾の大活躍をさせて、名人の眞に名人たる所以を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事實を曲げる譯には行かぬ」。

 しかし、慧眼の読者は、この記述の中に第十の階梯を読み取ることが出来るらしい。「甘蠅師の許を辭してから四十年」という長さに気づかない読者は阿呆だと谷濁先生は叱咤する。わしもとんと気づかんけえ、この怒声には腰を抜かしてしもうた。紀昌はおそらく四十年間にわたって、人牛倶亡の境地で巷に入り俗にまみれて「入躔垂手」の生きた活動をし続けたんじゃ。そこが見えれば正に情解の人と言うことになるらしい。そうした紀昌の活動自体はこれこそ正に信解の境位じゃから、これまた情解を事とする小説家の筆には乗らないんじゃ。仕方がないから、小説家は次のようなエピソードを作品の最後に記している。

 「實際、老後の彼に就いては唯無爲にして化したとばかりで、次の樣な妙な話の外には何一つ傳はつてゐないのだから」として記されているのは次のような話じゃ。「その話といふのは、彼の死ぬ一、二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つた所、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、其の用途も思ひ當らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客が冗談を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけた笑ひ方をした。老紀昌は眞劍になつて再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた樣子である。三度紀昌が眞面目な顏をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顏に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎(じつ)と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、氣が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。

 『ああ、夫子が……古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや?ああ、弓といふ名も、その使ひ途も!』

 其の後當分の間、邯鄲の都では、畫家は繪筆を隱し、樂人は瑟の絃を斷ち、工匠は規矩を手にするのを恥ぢたといふことである」。

なーんだ、ただの呆け老人の話じゃんか!今時の読者からの罵声が聞こえて来る。そうじゃない、違うじゃろう。邯鄲の都の人々の反応をよく見てご覧よ。

 飛衛はさすがに山を下りてきた紀昌の面差しにその名人たることを即座に認めたが、凡人はそうはいかない。木偶の表情の人間は木偶としか理解できない。しかし、ここまで徹底すると、さすがに木偶が名人だと認めないわけには行かなくなる。尤もこの記述は『十牛図』第九の「返本還源」の情解的表現なそうじゃ。

 ふーん、『名人伝』がそう言う構成になっていると読める人には読めるんじゃ。じゃが、わしが興奮して眠れなかったのは、谷濁先生が目を輝かせて話してくれるこの部分ではないんじゃ。さっき谷せんせが問題にしなかったここじゃ。

 「樣々な噂が人々の口から口へと傳はる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡つてゐる間に體内を脱け出し、妖魔を拂ふべく徹宵守護に當つてゐるのだといふ。彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乘つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人と養由基の二人を相手に腕比べをしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと」。

 不思議じゃ。いったい何のことやら分からないから、尚更不思議になる。雲に乗っているとは、孫悟空かいな。それに古今の弓の三名人のこの腕比べの記事に、一体何の意味があるんじゃろう。とんと分からん。

その晩、やっぱり変な夢を見た。例の古今の弓の三名人が放った矢の夢じゃ。「三名人の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つた」とあるその三本の矢じゃ、その彗星のような青白い水色とも薄い白緑色とも見える尾を引いた矢の夢じゃ。参宿と天狼星との間は、見るとアリンコの巣穴の入り口ほどにも満たない狭さで、そこを太陽の大いさの鏃を持った怒濤のように光る尾を引く三名人の矢が、宇宙をとよもす唸りをあげながら同時に通過したと見ると、地上の人間からは見えるはずもない的となっているものがはっきりした。それは、宇宙の裏側に遍満している、「大いなる虚」とでも言うべきものじゃ。たとえわしら凡庸な人間がそれに触れたところで、この「大いなる虚」は毫髪も、ほんの一寸もなんの反応もせんじゃろう。と言うより、わしらはそれのあることも、それに触れたと言うことも何も感じないで生きているんじゃ。その大いなる虚が、さすがに三名人の、一つの鏃の先が太陽ほどにも大きい矢を、一時同時に三本もまともに食らったんじゃから、とてものことたまったもんじゃあない。古代の途方もない大きさの青銅の銅鑼が、手力男命の拳固で思いっきりどつかれたように、びりびりと唸りを上げて震えだした。それと同時に、わしらの実の世界の宇宙の星辰が、真夏の花火大会のフィナーレみたいに、一斉にさまざまな彩りの花火となって輝き、あるものは爆発し、宇宙全体が極彩色の遊園地のような騒ぎになったんじゃ。尤も、その矢が放たれたのを見ている、趙の邯鄲の都の民であるわしの目には、そんな物は何も見えん。ただ真っ暗な夜空が見えるだけじゃ。勿論、宇宙をとよもす、地下核シェルターに入ったってどうしたって耳を聾するほどのもの凄さで襲って来る大音響すら聞こえん。ただ森閑とした古代の夜空の静寂の音が聞こえるだけじゃ。三名人はさも満足げに、からころと笑うと、その楽しげな声だけを残して忽然と消えてしもうた。後にはただ空しく夜の草っ原にひっくり返っている邯鄲の民のわしが見えるだけじゃ。ひっくり返っているわしは、実に不思議な感覚に捕らえられて、にっちもさっちもいかない。地の底に恐ろしい力で引きずり込まれるかと思うと、遙かな高みに実に軽やかに浮遊して行くようでもある。わしは思わず知らず唸り声を上げた。

     終章

 ううううー。よく夢を見たもんじゃ。変な夢なんじゃが、その夢のせいじゃろうか。最近、日頃谷濁先生が言っているような、腸が洗われたすがすがしい気分になって、目覚めるような気がする。もっとも親方に言わせると、すがすがしく目覚められるのは、やっとどうにかこの頃になって、わしがきちっと一日の仕事が出来るようになって来たからなんじゃそうじゃ。

 ところで今日はひよしやに新蕎麦が入ってくる日なんじゃ。店の前をさっぱりときれいに清めて、今年の新しい蕎麦に店に入って頂かねばならん。この日ばかりは、谷濁先生も出前ではなく、ひよしやに食べにやってくる。親方の表情にも、緊張と嬉しさが満ち溢れる。谷先生と言えば、親方はわしが『名人伝』なる文庫本を読んでいるのは知っている。勿論、本を読め、職人も学問がないと駄目だという人だから、休み時間に本を読んでいるのを咎めることはない。じゃが、この本のことを出前に行く度に谷濁先生と問答をしていたのは知っているのかどうか、分からない。いつも遅く戻ってくるので、せんせんちで何かご褒美のご馳走になっているくらいに思っているのかもしれん。そうなんじゃ。この出前だけは、遅く店に戻っても何も言われん。

 竹箒で店の前の道を清め、箒目を土の上に青海波の模様に立て、裏の井戸から汲んできた水で、打ち水をする。その柄杓の先に、谷濁先生の高下駄が現れた。高下駄じゃから、水が自分の方に飛んで来ようがとんと頓着なしじゃ。せんせはそのまますっと店に入って行かれた。

 ひよしやは常連さんで貸し切り状態になってしもうた。今日は店を開ける直前に打ち終わった新蕎麦の分だけで、それ以上蕎麦打ちをしない。じゃからいつもは調理場に籠もっている親方も、この日だけは店に出て来る。今年の蕎麦の評判をしながら、お客さんの反応を見、感想を聞きながら、その年の蕎麦の打ち加減、つなぎの種類、そばつゆの配合等々、あれやこれや、その年の蕎麦の出来具合に合わせて具合を見るんじゃ。じゃから、ひよしやの蕎麦はけっして同じものは一年たりとてない。或いは、人によってはじゃからこそ、ひよしやの蕎麦はいつも毎年同じ味じゃと評判をする。

 この日、谷濁先生は決まって、十割蕎麦とニ八蕎麦、更科蕎麦の三種を召し上がる。「今年の蕎麦はとりわけ黒いね」。十割蕎麦を食べながら谷先生が親方に言う。「へえ、おひさんがようけ照りましたよって、こないな年は蕎麦のエゴイズムがなかなか取りきれません」。えっ、蕎麦にエゴなんてあるんじゃろうか。いや、まったくだ。人間もこう育つとなかなか大変だ。蕎麦のように石臼でがりごりとエゴの黒皮を擂り潰してしまうわけにも行かないからね。そうですわ、なかなかそれが取りきれません。このままにしといてくれ、このままでいいんじゃー、と蕎麦の実が騒ぎます。生まれ出たままでは駄目なんだが、どうしても誰でもそう言って聞かないものさ。サルでもそうだが、なまじ知恵が出ると益々厄介だ。知恵の出所は大概エゴイズムだから、自分の都合の良いようにしかものを見ない。ですからこの手のやつは扱いづらい。今年のはそれでも水を加減して、かなりアク抜きしたつもりなんですがね。二月堂のより春日大社の方が、この手の蕎麦には利くようで。うーむ、若狭井と春日井の違いじゃ。産湯というか洗礼というか、最初の水が肝心と言うことでしょうか。

 そうか、知解というのは教育によって徐々に付けられてゆくように見えるが、実は反対なんじゃ。この日ばかりはわしもお客さんの卓の傍にいて、話を聞いていても大目に見てもらえる。じゃったらなぜわざわざそんな迂遠なことをするんじゃろう。おそらく谷濁先生に言わせると、情解の方が余程正しい、正鵠を射ていると言うことになる。直接じゃから、直に人を動かす。だからこそ駄目なんじゃ、と谷せんせ以外の大学の先生は言うんじゃと。親方が言っておった。先の御大戦に負けたのも、そのせいじゃそうな。

 二八蕎麦か。うん、なかなか良い。エゴが抜けて、蕎麦の正体がそのとおりに出ている。谷先生が褒めた。だが、これがなかなか難しい。二八だとは言っても、そば粉と繋ぎとがどのように捏ね合わされているか、どう斑になっているか、どんな名人でも完璧には行かない。一九もあれば、三七も出る。二八の前後に無数の蕎麦が出てくる。また、蕎麦の出来具合によっては二八が一番良いと言うことには必ずしもならない。だからどうしても知解という理解の仕方がいるんじゃ。ところが一見すると情解より一段上のように見えるが、実はこれが曲者で、根っこにエゴイズムを持っているから始末に負えない。情解のエゴイズムは誰でも言うが、この知解に引っ付いているエゴイズムを指摘した者は殆どない。つまり、自分が二八だとそれぞれが主張して已むことがない。西欧人が宣言するように、万人に平等の「理性」とか言うものを判断の基準とすると、みんなが同じ土俵に立つことになるが、従って此所で勝負して勝った方が正しいことになるが、身長・体重が皆違うのだから、この勝負も客観・平等とは言い難い。結局「力」がものを言う。人間世界は万事この通りだ。そこに行くと親方の世界は名人の世界だから、こんな屁理屈は通用しないし、理屈抜きの問答無用の力も通用しない。実に明々白々の、すがすがしい世界だ。しかも、その行いがこうしてみんなを喜ばせる。喜ぶのは、まず目、そして鼻。それから舌。舌から徐々に腸に滲みて行ってやがて、五感のすべてが感動する。これほど文句のないことは他にないだろうじゃないか。情解の世界でこそ、われわれは生きているという実感と、喜び悲しみその他諸々を徹底して味了することが出来る。そんなことをもそもそ言っている間に、谷先生の蒸籠は空になってしまった。それを見た親方は、三番目の更科を持って来た。

 まっさらの、今年は春日井の水の化身のような蕎麦が、雲が突然切れて差し込んだ秋の陽光を受けて輝く。谷濁先生は、わしが今まで見たこともないような表情をして莞爾とした。親方もそれを見てさも悦に入った笑顔を一瞬、見せた。ふーん、こんな具合にして親方とせんせの間に会話が、心が通い合っているんじゃ。わしは、紀昌と飛衛が相擁した『名人伝』の場面を現実に見る思いがした。信解の世界じゃ。あさひやは常連さんで一杯で、それぞれが蕎麦をすする音、話し声、笑い声、酒が酌み交わされる音、賑やかなはずの店内の音が一陣の秋風に吹き抜かれたように、わしの耳に障らなくなった。すべてがそのとおり明瞭にくっきりと見える。わしは、あっと思った。しかし、その瞬間、一瞬止まった映画のスクリーンが動き出したように、店はまた同じ喧噪に戻った。見ると谷濁先生は、更科を食べ終わって蕎麦湯を飲んでいる。

 親方、この新蕎麦の日は出来れば私の休みの日にしてくれないかなぁ。そうでないと、ほら、こうして酒の代わりに蕎麦湯を飲むしかない。今日はこれから大学で講義があるからね。日本酒を飲まなきゃほんとの蕎麦の味はわからんじゃないか。いくら谷先生のお言葉でもそれは聞けまへん、毎年、入荷するその日が新蕎麦の日ですよって、と親方はてんで相手にせん。そうじゃ、この日は親方のはるか前からひよしやの伝統なんじゃ。わしもついこないだ気づいた。調理場と店の境の、暖簾を掛けている所の飴色に古びた柱に、同じような色になったキズが、ちょんちょんと幾つも付いている。なんかなあと、わしがしゃがんで見ているとちょうど親方が来て、ああ、それかい、それはわしのせいの丈の傷や、と説明してくれた。餓鬼の頃よく店をちょろちょろして、親方の親方に此所に立ちんぼさせられたんじゃそうじゃ。そんときに親方の親方が柱に傷を付けて、此所より大きくなるまで動いちゃならんと親方に釘を刺した。親方は早う大きくならんかなと、そこでじっとしとったそうじゃ。一番低いところはわしのお臍のあたりくらいしかない。親方がこんなにちっちゃいんじゃ。わしは思わず微笑ましくなった。

 それにしても、わしはどうするんじゃろう。戦後のどさくさでこのひよしやの丁稚になったが、何だか来年から新学校制度とか言うで、わしも学校にいかなならんそうじゃ。何で今更学校なんじゃろうか。谷濁先生は、今時の大学生はろくなもんじゃない。どれもこれもアミーバのような顔をして、人間の顔をしたものは一人もおらん、と手厳しいが、わしも学校へ行って人間以下の顔になってしまうんじゃろうか。

 そんな顔をしていると、谷せんせが、おい玉ちゃん、来年から学校だなと声をかけて来た。新制の中学とやらに通うんじゃ。別に行かんでもという顔をしちょったらしい。せんせは笑って、勉強をして虫になってしまうのもなんだが、勉強をしないで虫のままでもなんだなあと言う。わしは一寸むっとした表情をしたらしい。谷せんせは、まあ玉ちゃんは今でもちゃんと勉強はしているから問題はないがね、と言い足してくれた。『名人伝』のことじゃろか。と思っていると、おお、遅れると谷先生は慌てて立ち上がった。遅れたって実は意に介さないのがせんせなんじゃ。

 それじゃ、お代は後で、玉ちゃんに家に取りに来させてくれ、と言って先生は出て行ってしもうた。わしはその後を追って店先に出て、「まいどー」と先生の後ろ姿に大きく声を送った。見ると、遙かな秋の空の高みに、葛で作った熊手をひょろ長く伸ばしたような巻雲が浮かんでいる。そう言えば、『名人伝』はこの秋の到来と共に終わってしもうた。

 勿論、名人伝そのものは、この先のわしの一生をかけても終わるかどうか、実は分からんのじゃ。それにしても、今度はどんな本を先生はわしにくださるのじゃろう。学校のことよりもそっちの方がわしには、もっとずっと楽しみの気がかりじゃった。                              (了)