guteki’s blog

愚適庵の日文美術館

 自作の、詩集・小説・随想など、一文をわざと長くしたり、逆に短文にしたり、形式段落を長大にしたり、訳の分からない文体にしたり、
色々に描いたものを展示しています。

小説 近代詩の消長

『近代詩の消長』

序章 出会い

    ナラ公園の縁(へり)の、割と深い側溝の縁(ふち)にしゃがんで。危ない!今にも頭から落ち込んでしまいそう……。そんな具合で中を覗いている白髪頭の爺さんがおった。「じいさん、大丈夫けー、危ないがな」と走り寄ると、「心配すっこつは、なか」とこちらを振り向きもせず、相変わらず側溝を覗き込んだままの素っ気ない言葉が返ってきた。そんなんゴミしかないような、どぶを覗いて、とわしも一緒にしゃがんでみた。すると、じいさんの視線の先、側溝の薄暗い影になっている辺りに、かわゆらしい小さな黄色い花が点々と明かりをつけておったんじゃ。「ふーん、このちっちゃな灯りに呼ばれたんじゃな」と思わずわしは感心してしもうた。  じいさんはそれきり何も言わず、どぶに落ち込みそうな姿勢で相変わらずじっと花を見続けている。誰も見向きもせんこんなどぶに、清げな花が咲くもんじゃとわしも感心してしもうた。そこでつい「何という花なんじゃろう」と聞くともなく独り言してしもうた。すると爺さんは声を出してはいけんというふうにわしを見た。「花ん声ば、聞けんこつなりもそ」。とさっきまでの優しげな顔と打って変わった、険しい表情じゃ。どうも取り付く島もない。折角心配して来てやったのが、なんだか阿保らしうなった途端の背後で、突然、街宣車の拡声器から大音量の胴間声が響き渡った。「立て、万国の労働者アー……」。間髪を入れず何が何でもそれに対抗しようと、その大音量に倍する音の濁声で今度は「ここはお国の何百里いー……」。じいさんの「しっ」どころではない、花の声を宇宙の果ての果てまで吹き飛ばす、阿鼻叫喚騒音の修羅場が出来してきてしもうた。はて、爺さん何とするんじゃろう。人ごとながらわしが心配になった、その瞬間じゃ。  ――ぶぅっ フォー―― すぐ脇に居ったわしの耳と鼻が、ダンボのような拡大器になってしもうた。街宣車の音なぞもう問題ではない。もの凄い放屁じゃった。……呆れ果てて、わしは後ろも振り返らずひよし屋に走り戻った。  すると、昼なのに珍しく谷濁先生が店におった。で、ついそん変な爺さんの話をせんせにしてしもうた。何しろ変さにかけては、せんせと同じじゃから。せんせは笑って「あーそれは河骨だ。池のやつが溢れたときにどぶに出てしまったのだろう。それにしてもそんな剣呑な所で爺さんが今にも落ちそうな格好をしてちゃ、玉ちゃんがびっくりして心配するのも尤もだ」。それにしても変な爺さんじゃった。いったいだれじゃろうと思っていると、すかさず谷せんせが「そいつはきっと東本に違いない」と断言した。「へー、せんせのお知り合いなんかいのー」。「うん、実におかしなやつだ」。谷せんせにおかしなやつと言われると、大概のもんはびっくりした顔をする。それはそうじゃ。せんせほどおかしな人がこの世にあるとも思われん。「九州の地図ようなへしゃげた顔をしていなかったかね」。確かに、メイクイーンみたいな馬鈴薯顔じゃった。「偉そうにパイプを吸っていなかったかね」。いや、煙管は持っておらんじゃった。「ふーん馬鹿に熱心だったと言うことか」と谷せんせは一人で合点している。「もうそろそろ暑くなる頃おいだ。それでもアスコットタイなどをしている変な奴だ。ダービーハットは被っていなかったかね。イギリスの競馬場で紳士を気取ったオトコどもが被っている帽子だ、マイ・フェア・レディは見たことが無いか、あの映画の主人公のイラーイラは毛唐だからこそ似合うような弩でかいつばの帽子を被っていたのだが」。いや、そんなん、気付きもせん。ひょっとすると帽子は手に持っておったかも知れん。  
 「わしの同僚だが、畑が違うのであまり話したことはない。おまけに大学の正門の前に住んでいるから、訪ねたことも殆どない。玉ちゃんも知っての通り、わしは決まっていつも裏門から大学に出入りするからね。えっ、もの凄いおならをされた?そうか、早速洗礼を受けたか。あいつは「ならじじい」という渾名を持っているくらいだから、そりゃ大変なもんさ。とにかく鼻持ちならん変な奴だが、面白いことは面白い。どうだ玉ちゃん、『名人伝』もすっかりおさらいしてしまったし、一度訪ねてみたら。わしが紹介してやろう」。  訪ねるも何も、あんな偏屈そうな爺はこちらから願い下げじゃ。谷せんせの話によると、何でも「し」を専門にしている学者らしい。ついこないだエギリスから帰ってきたばかりなそうじゃ。「戦時中はかなり苦労したようだ。移民ではなく英国国家給費留学生という資格でイングランドに滞在していたから、合衆国の日系人みたいに強制収容されるという悲惨な目には遭わなかったようだが、カミさんの安下宿に逼塞して毎日ジャガ芋ばかり食べていたということだ」。ふーん、それで顔があんなんじゃ。それでそのおカミさんというのは、エギリスのお人かいのー。と思っていると、谷せんせは「おお、これは拙い。学校々々」と言って一目散に店を出て行ってしもうた。そのあとじゃ。件の東本という「し」をやっているとかいうあの変な爺が、店にいきなり入ってきた。  
 「おお、これは小僧どん、せんだってはこじゃんと失礼ばしもすた。ついとそこで谷に逢うたとばってん、おまさんの事ば聞きもした。お詫びせんばち思うて、ほんまは蕎麦は好かんごたるが、ちくと寄りもした」。ダービーはっとたらいう物を頭から取るともしゃもしゃの麻のように絡まり合った白髪が出て来たその頭で気まずそうにわしに会釈しよるけ、わしもつい「おいでやす」と頭を下げてしもうた。  好きじゃない、という蕎麦屋に入ってきてしまった東本せんせは、椅子に座ってはみたもののしかし困った顔をしている。偏固な親方のせいで、酒の摘まみを除けば、品書きは蕎麦しかない。うーむ、……焼酎ば一杯。注文されてわしも困った。酒も蕎麦に合う日本酒しか置いてないんじゃ。……うーむ。東本せんせは雪隠詰めにされてしもうたような顔になった。わしへのちょっとした気遣いから、ひよしやで一杯飲んで行こうと立ち寄ったのが、手足を何処にも出しようのない亀の子にされてしもうた。  
 どうも鹿児島のお方のようじゃ。じゃが九州の酒は置いていない。酔鯨が良かろう、土佐の酒じゃき。ひよしやのお客さんの相手をしているうちに、店で出している日本酒の銘柄と特徴は大概憶えてしもうた。飲んだことは勿論ない。お客さんの品定めからわかった単なる門前の小僧にすぎんのじゃが。これには蕎麦味噌が一番じゃ。……おお、そうでごわすか。したら、その酔鯨とか言う酒ば、飲んでみもそ。そもそもその名前からして豪気でよか。なんでん気にば入りもした。  ところが日本酒ば飲まん、と言いよった東本せんせはわしの瞬きもせん間にお銚子を五六本空けてしもうた。「こぞうどん、よか酒じゃ。もう四五本お銚子ばいただきもそ」。「せんせ、お仕事は大丈夫なんかいの」いらぬ心配をしたのとあまり居て欲しくないのとで、ちょっと余計なことを言ってしもうたんじゃが、「小僧どん、せんせはいかんばい。東(ひがし)どんでよか」。少し機嫌が良くなってきたらしい東本せんせは、先刻とは打って変わって饒舌になった。  「……いけん、忘るるところでごわした。こいばお詫びにと思い、寄ったとに」。そば屋の小椅子には置ききれず床に蟠っている、相撲の関取のお腹のように膨らむだけ膨らんだ鞄を開けると、これまた今まで見たこともない谷せんせんちにもないような、分厚い一冊の本を卓の上に出した。「こいば、お詫びに小僧どんに差し上げもそ」。ぺらぺらの『名人伝』とはごっつい変わりようじゃ。おまけに谷せんせが呉れた文庫本とは月とすっぽん、書名が金箔で押してある、偉く高価そうな本じゃ。 ――『近代詩の消長』――読むことはできたが、意味がわからん。「近代詩」とは何じゃろう。「消長」とは、消えてしまってからずいぶんと長いこと経ってしもうた、という意味じゃろうか。さっき谷せんせが、「わしが紹介してやろう」と仰ったのはこの本のことじゃろうか。…… いけん。これは如何にも拙かろう。『名人伝』はぺらぺらじゃ。ポケットに入れられて手は手ぶらで、おまけに谷せんせんちはひよしやの裏隣じゃ。こん東本せんせんちは、なら大学の正門の前じゃ。早足で行っても、たっぷり三十分はかかるじゃろう。裏門なら、十分とはかからんが。おまけに、この分厚い電話帳じゃ。もっとおまけに電話帳とは似ても似つかん、ハードバカーとか言う装丁の本じゃ。こんだけで、ひよしやの岡持ほども重い。  丁重にご辞退申し上げようと頭を下げようとした途端、「こいはさっきのお礼だけではなかでごわす。谷に小僧どんこつば頼まれもしたとばい」。頂門の針よりももっと太い釘を打たれてしもうた、いきなり、身動き出来ん。「谷の言い種がまたよかばい。おまえの所は、この御大戦の惨敗でめっぽう美人の日本には稀なけとうのカミさんに逃げられ、おまけにその歳で子供もいない謂わば鰥夫の一人暮らしだ。しかも日頃はなら公園の鹿や馬にも劣る大学生を相手に、子守のような授業をしているだけだろう。生きていて一番肝心な人間関係の愉楽、機微というものが何処を見渡して見ても無いではないか。ひよしやの小僧は両親に死なれてあそこの親方に就いて丁稚をしているが、今時の大学生より字が読める。玉男という名前なので皆、玉ちゃんと呼んでいるが、この玉ちゃん、なかなか見所のある小僧で、ついこないだまで息抜きのつもりで専門外の『名人伝』、君はこの極めて東洋的叡智に満ちた掌編を神秘的という一言で退けるが、そうも言えないだろう。大体、君が専門としている詩にしてからが、我々科学からすれば論理も何もないまったく底抜けの神秘主義だ。まあ、それはともかく、今時の大学生では殆どまともに読めないこの本を玉ちゃんは苦もなく読んで、しかも実に正鵠を射た質問を遊びに来る度にしてくれた。それが愉しくて、ついおれも(子供を相手に)真剣に話をしてしまった程だ。そんなこんなだから、どうかね、君の所蔵している本のどれでもいいだろう、何か一冊玉ちゃんに与えて、彼の休みの時にでも一緒に話をしてみては。弟子が良ければ、師匠の方にもそれだけの楽しみと発見というものがあるだろう。君子に三楽ありだ」。  そう谷に言われて、おいどんも成る程と呑み込んで、こげんしてやってきもした。どうぞこん本ば受け取ってくいやい。――断りようが何処にもないんじゃ。じゃが、受け取ったが最後、東本せんせんちに通わねばならん羽目に陥る。谷せんせの『名人伝』が終わった時は、次はなんじゃろうと期待もしたんじゃが、やはり休みにまでお勉強は、ないほうがいいんじゃ。と、(心の中では思いつつ)つい、両手を差し出してしもうた。……その本の余りの重さに、そん時わしの心の天秤が狂うてしもうた。


初もうで

    愈々じゃ。東本せんせん家に初めて行く日が来た。じゃが、これが谷せんせん家に通っておった時とは比較にならん程の大分な往生じゃ。谷せんせん家はひよし屋の裏手じゃったけん、猫が造作もなく塀を伝って遊びに行くようなもんじやったが、東本せんせん家へは、どう引き算しても幼稚園の遠足程の距離はある。じゃでわしは選りに選って、最短の近道を取る事にした。じゃがこれが短慮、浅知恵、大失敗。急がば回れ、を実地に自分の身で演じるとは思いも寄らんかった。……初めての日の緊張で身体も気持ちも固まってしもうておった上に、ひよし屋の親方が持たせて呉れた箱物の弁当、と言うても、殆どが酒呑みの東本せんせに合わせて誂えた酒の肴なんじゃが、これにわしのお昼も入れると結構な嵩になる。おまけに東本せんせの分厚い電話帳の御本を風呂敷で包んで首に掛けると、中学一年生になったわしにも流石に手に余る程の重量じゃ。そんわしの出で立ちを見てひよし屋の親方は、酷いな、吹き出してしもうた。大変なんは判るけどな、東本せんせちう偉いお方にお世話になるんに、束脩、そげなもんは断じてお断りもす。と言われ、てもそうは行くまいと親方に因果を含められては、歩行訓練の新兵程の重装備であってん、へいと畏るしかない。  そのなりじゃで普段見慣れない風景の中に入った事にとんと気付かんかった。わしが常日頃近所の仲間と遊び回っているのとは別の領域、地回りの言葉じゃと別のシマ、に入り込んだ事にまるで気が行かんかった。一所懸命、いち、にの、さん、し、冷や汗をかき乍ら重装備で殆ど地びたを見なければ歩けないわしの眼の中にほんの小さな欠片程の石コロが転り込んで来た。驚いて顔を上げると、今度はわしのその顔目掛けて、ゆるゆると礫が飛んで来た。こん時、あっと思い出したんじゃが後の祭……塞の神の小僧が高見に陣取っておったんじゃ。泡を喰って避けようとした拍子に小石に蹴躓いてしもうた。グワラシュードッサシュグザボキ―ゴン……。携げていた束脩の酒肴が地面に大盤振舞のわやな穴だらけの大風呂敷を広げてしまった。――振舞い主の玉ちゃんは大恐慌を来す。親方特製の杓文字焼きの蕎麦味曽は砂粒混りの特々製と成り、海老薇の膾は発条となって地面で跳ね踊っている、東本せんせが気に入って呉れた特別純米の酔鯨を入れた伊賀焼の置徳利は横倒しになって、マッコウ鯨よろしく大ボラ潮を吹いている。玉ちゃんの頭は大爆発、何をどうしたら良いのかの判断すら出来ず、右を向き左にお辞儀をし、ちぐはぐな起き上り小法師を演じている。……パニックに陥った玉ちゃんの耳に、平手打ちを喰らわせる凜とした声が響いた。  あんたはんひよし屋の小僧さんやね。どちらへの出前なん。あてえが事情を先方はんへお話しておきますさかいに、あんたはんは急ぎ店にお戻りやして、作り直してお貰いなさい。その声に押されて、玉ちゃんが東本せんせの名前を口に出すや、声の主の女の子は文字通り脱兎の如く走り去った。……玉ちゃんは漸く我に返って、元来た道を犬ころのようにひよし屋に走り帰った。親方が手早く箱物の馳走を作り直してくれるのを見ながら、はて、あん女の子も慌てもんじゃ、と玉ちゃんはやっと人心地がついた。東本せんせの居所も聞かずに、どこへ走って行きよったんじゃろう。しかし、そう言う玉ちゃんはその女の子の名前は固より、顔も身なりも何も覚えては居ないのである。 ナラ大学の正門の前迄来るのに此んなに手間と時間が掛かるとは思わんじゃった。成程、谷センセが「いっも裏門から入る」と言っちょった訳じゃ。じゃがやっとのことに辿り着いた、その東本センセん家の玄関の前で、今度は立往生する羽目に陥ってしもうた。どうも素直に行き着けん。何となれば、玄関が変なんじゃ。勿論、玄関自体がこの辺りでは滅多に見られん洋風のもんであるのもそうなんじやが、玄関の前を、丸で通せんぼをしちょるごとくに、水が流れておる。勿論、川ではない。水道管に罅か何かが入って、地上に滲み出て来た奴が、小一メートルばかりの幅で薄い水の透明な反物を広げ延ばした風に、玄関の真ん前を流れておる。深さと言うたらそんなん、無い。水が土の道を舐めながら流れているようなもんじゃ。じゃがわしの履いておるのは今日の為に親方が新調してくれた他所行きの桐下駄じゃ。委細構わず渡ってそん洋式のドアを引いて、今日は、と入って行けば良いようなもんじゃが、此の場合下ろし立てじゃけー濡らすのはどうにも憚られるんじゃ。と言うて一と挑びすれば越えられる幅じゃが、そうすると玄関扉に胸か顔がブチ当るか、逆に、着地した拍子に首に掛けた「電話帳」に引き戻されて、もんどりうって仰向けにこの変な流れに倒れてしまいそうな按配じゃ。困った。束脩の代りの酒肴が入った手籠は携げておるし(手籠は、半べソで店に戻ったわしに、事情を察した親方が手速く、嫌な顔一つせず新しく拵え直してくれた物じゃ。そう言えばあの女ん子は東本せんせに連絡をつけて呉れたんじゃろうか)。詮方なか、ピシャピシャと幅小一メートル許りの東本せんせん家の裏手、大学の正門を左手に見る辺りから表通りに回り込んで流れて来よる訳の分らん禊の水の道のようなんを渡って、さてと、玄関扉に取り付いて見ると此れが見上げる程大仰な部厚い、城門の玄孫見たような奴じゃ。玄関の引き戸よろしくカラッと開ければ良いんじゃろう、と思っておったわしは、又此で立往生じゃ。玄関扉の天辺はわしの手の届かぬ程遙か上にある。表面には西洋の何たら紋様のゴテゴテした浮彫が施されておる。丁度顔の辺りに扉敲きたら言うものが牛の鼻輪の如く垂れ下がっておる。わやになっておったついわしは、恰度の高さのおでこでそれを叩いてしもうた。音が真鍮のたんこぶから突き抜けるように家の中に純粋透明な音響のまま通って行くのが分かる。ふーん、大したもんじゃ。と感心しておると、それに呼応して扉の遙か彼方と覚しき、ずーっと奥の方から、オー玉ちゃんか、ようきんさった扉ば開けてどうぞ入ってたもんせ、と言う東本せんせの声が表に出て来た。  開けて、びっくりじゃ。三和土も上がり框も何も無い。此れが噂に聞く洋館たら言うもんじゃろうか、開けたらその儘、家の中じゃ。思わず下駄履きのまんまで入り込んでしもうたわしは。一瞬脱いだもんかどうしようかたじろいだんじゃが、扉を開けた直ぐの所に、履き物の底ば拭ってくいやいと言うように、靴拭き絨毯たら言うもんが敷いておった。成る程、玄関前のおかしな流れの謎が解けた。やはり、あれは東本センセん家に入るための、禊の水じゃったんじゃ。と合点して、猫の爪研ぎよろしくその玄関マットたら言うもんで、下駄をすりすりしながら、初めてのお宅じゃけ不作法とは思いつつつい、ぐるぐる上から横から下から斜めから部屋の中を眺め回してしもうた。まず驚いたのがわしから二歩ほどの前の所にこっち端を見せている洋卓たら言うもんじゃ。東本せんせに言わせると、円卓騎士たら言うエギリスの古いお侍衆が、甲冑をつけたまんま十二人全員がゆったりと坐れる程の大きさなそうじゃ(十二ちうんは、干支のお侍衆なんじゃろか)。長楕円形のテーブルのその一等奥に昼のお殿様よろしく東本せんせが、パイプたら言うもんを銜え、ロッキングチェアーたら言うもんに坐って、子供が乗ってギーコタンする木馬に反っくり返って乗っているような案配で椅子を揺すっている。こん端から遙か向こうに見えるせんせに聞こえるように話すには大声で叫ばねばならんようじゃが、パイプ煙草の懐かしいような喉をほんのちょっといがらっぽくするような、アレマとかアラマアとか言うんじゃそうじゃが――良い香りが広い部屋をゆるゆると巡って遙かこちらに居る玉ちゃんの鼻をくすぐって来る。どうしたもんじゃろうか、と思案していると、こっちさきんさい、とせんせの直ぐ脇の椅子を指さしてくれたんで、助かった。木張りの床を下駄でゴトゴトしながら次に驚いたのが、部屋の壁一面グルリと天井まで届く本棚じゃ。せんせの部屋の三面、玄関扉を開けた両側は勿論正面の、東本せんせが坐っておりんさる背面の壁まで、床から天井までの全部が本棚じゃ。わしは仰天した。一人でこんなん、ご本を持っている人も見たことが無い。谷せんせん家も、どうやら二階に洋書たら言うもんが呆れるほどあるようじゃが、せんせは本など持ってないような顔をしておった。わしは谷せんせん家の二階に上がったことは無い。したが、こん東本せんせん家は最初から丸見えじゃ。しかもどれもこれも、皮で装丁され題名を金箔押しされている分厚い本ばかりじゃ。これを全部読んだんじゃろうかというように目を丸くして眺め回しているわしの顔を見て、東本せんせは、全部飾りでごわす。驚くことはなか、と笑って、フランスのマロル目とかヴァレたらーとか言う詩人の詩を独り言のように呟いた。本ほどは哀しげなもんはごわんど/おいどんは/すべての本ば読みもした。……エーっ、そんなこと、ありはせんじゃろ。それにしてもじゃ。  やっとのことじゃ。東本せんせの目の前まで辿り着いて、さてご挨拶をと思うんじゃが、手に提げてきた酒肴と首に掛けているせんせのご本をどうしたもんじゃろうと又思案してグズグズしていると、せんせが「ゆきちゃーん」と背後の本棚に向かって声をかけた。「はい」と奥から返ってきた声に、なにやら聞き覚えがあるような。部屋の正面、奥横が隠しのようになっておって、きっと後ろに水屋があるんじゃろう、そこから女の子が出て来た。玉ちゃんはまた、あっと驚いた。てっきり先ほどの自分の難儀を救ってくれて、東本せんせん家に走って知らせに行ってくれた女の子に相違ない。何じゃ、そういうことじゃったんか。幸ちゃんたら言う女の子は、玉ちゃんの間の抜けた顔を見て空中に浮かぶ金糸雀の羽根のように軽やかな微笑みを浮かべている。手にお盆を持ち、そこに置かれている茶碗からパイプ煙草とはまた別の、良い香りが漂ってくる。東本先生と玉ちゃんとの間にすっと入ると、洋卓の上にお盆を置いた。茶碗を見ると、谷せんせん家で見た紅茶と違って、もっと濃い褐色の液体がほわふわと湯気を立てておる。おまけに、こいは谷せんせん家でも見て、食べたことのあるケーキたら言うもんがかわゆらしい花柄の皿に乗っている。お盆を置いた幸ちゃんが、玉ちゃんに向かって手を差し出す。玉ちゃんは一瞬何のこっちゃかわからん。幸ちゃんはさらに両手を差し出す。そこでやっと合点じゃ。玉ちゃんはずーっと提げていた束脩の酒肴の苦役から、ここで漸くのこと解放されたのであった。幸ちゃんはそれを持って又、水屋とおぼしき本棚の裏側に消えて行った。後ろ姿を呆然と見ていた玉ちゃんは、東本せんせの視線にはっと気付いて、首に掛けていた電話帳のご本をテーブルの上に置いた。  折も折、昼でごわんが御飯の前に甘いもんいうのは、何じゃっでん、ともあれよう来んさった。あがいな荷物ば持って、途中でこじゃんと難儀な目に遭いんさったとか、幸ちゃんから聞きもした。まあ、こん甘いもんでも食いやってまず疲ればとってくいやい。……玉ちゃんがケーキと茶碗とを交互に見て逡巡していると、東本せんせが「抹茶とおんなじでよか」とアドバイスしてくれた。まず甘いケーキを一口、そして苦いコーヒー。コーヒーたら言うもん、これが玉ちゃんは初めてで、センセの言うとおり、一口ケーキをほおばって、コーヒーを一口飲む。吃驚じゃ。谷せんせんちの紅茶の時とはまた打って変わって、生クリームがコーヒーたら言うもんとマリーさんがだれかとアーたりんジャ。甘ったるい生クリームと、苦み走った珈琲が全く別の次元にアラびっくりーベン。ケーキの甘さとコーフィーの苦さに絆されて、此処までの道のりのあれこれを玉ちゃんが反芻していると。  近くの寺の鐘の音が地面の底からもうろうと無数の線香の煙が湧いてくるように響いて来た。午砲のドンじゃ。間なしに幸ちゃんが裏の水屋から、玉ちゃんがようやくの思いで運んで来た東本せんせへの束脩の御膳を根来塗りのお盆にし替えて捧げ持って出て来た。