guteki’s blog

愚適庵の日文美術館

 自作の、詩集・小説・随想など、一文をわざと長くしたり、逆に短文にしたり、形式段落を長大にしたり、訳の分からない文体にしたり、
色々に描いたものを展示しています。

詩の行方

詩と歌
 詩歌(しいか)と一口に言うが、「詩」と「歌」は元来別物である。「詩」とは「漢詩」のことであり、「歌」と言えば「和歌」のことを指す(もちろん「詩」を「うた」と読むことも出来る)。要するに歌の中で、日本のもの、つまり日本人が本来持っていたものを「歌」といい、中国伝来のもの、即ち外国のものを「詩」と長い間呼び慣わしていたのである。その伝統は古代から近世まで途切れる事なく続き、明治維新による欧化政策への大転換と共に一変した。日本にとっての「外国」はもはや中国ではなく西欧諸国となり、西欧の新たな歌が雪崩を打って流入して来たのである。これを、従来の外国の歌であった漢詩と区別するために、「新体詩」、つまり新しいスタイルの<外国のうた>としたのである。そしてさらに、漢詩を理解する人は現代では稀になり、加えてそれが作れる人はほとんど皆無となったのに対して、新体詩の方は、戦後の民主主義教育が国語学習の一環に新体詩を取り入れたこともあって一般に普及し、結局「詩」といえば今日では「漢詩」ではなく、西欧のポエムの影響を受けて明治時代以降に作られた「新体詩」を指すようになった。
新体詩
 「新体詩」という言葉が世に出たのは、明治十五年『新体詩抄』をその嚆矢とするが、一般普通の日本人が新体詩なるものに注目したのは、明治二十二年、森鴎外らの訳詩集『於母影』によると言って良い。これは雑誌『国民之友』の夏季号に付けられた付録であったが大変な評判となり、『国民之友』は付録のお蔭でたちまち売り切れになった。『新体詩抄』が、西欧の詩を試験的な(当然ではあるが)五七調・七語調の訳者に言わせれば「平常語」で表現したとする「長詩」が多く、かつ思想的内容が殆で所謂抒情詩的なものは皆無に近かったのに対し、『於母影』の中には、「ミニヨンの歌」など、日本人が憧れた未だ見ぬ西欧の匂いのまさに馥郁と漂う、斬新なスタイルの飜訳が幾篇かあり、それが当時の人々を魅了したのである。やがて明治三十年になると因習的な日本の封建道徳のために、苦い恋愛の涙を飲んだ青年詩人、島崎藤村によって新しい時代の日本人自身のうたとして、新体詩は確立されることになる。
    大正時代に入ると、新体詩は新時代の「詩」としての地位を確固たるのものとし、<大正詩話会>を中心に新体詩人が大同団結して、新体詩の全盛期とも言える時代を現出した。文語定型・文語自由・口語定型・口語自由という四つのスタイルを基盤に、様々な主義主張の新体詩が創作されたのである。それらの新体詩によって、従来の和歌や俳句では表現できない、新時代の人間の感情が描き出されたのは確かである。   
 「新体詩」は歌い方の違いこそあれ、そのいずれもが、意識するとしないとに関わらず近代の本質である<自由>を背景としていた。その証拠に、伝統的な俳句や短歌のような、師匠と弟子といういかにも日本人的な縦型の結社は、近代詩の世界にあってはほとんど成立しなかった。従って、自由と西欧の文化の香りとを運ぶ近代詩が、時代の精神として、当時の青年の心を魅惑したことは確かであった。だが、逆にその自由性が、近代詩を社会伝統として根付かない、不安定なものとしてしまったこともまた事実である。新時代の、しかし社会に容れられない青年の楽器となった新体詩は、近代以前の詩が支配者や教養人のステータスとして安定した位置を築いたのとは、まるで違うあり方をしたのである。

詩の行方
 ともあれ、いたずらな伝統や因習にとらわない近代詩のあり方はその本来の性格から、文芸という狭いジャンルに限らず失われてはならないものと言えよう。また、しかし、<自由>の一本の道を、何の当て処もなく常に独力で進んでくことほど至難の業はない。昭和初頭の自律俳句が、尾崎放哉・種田山頭火という二人の傑出した俳人を生んで、ついにその蹤跡を絶ってしまったのを見れば、そのことが良くわかる。近代の新体詩、つまり現在我々が言うところの詩は、その胚胎の当初からこの宿命を内包していたと言って良い そればかりか、明治大正期に青年の心をしっかり掴んだかに見えた近代詩は、科学技術の発達に伴うマスメディアの進歩によって、次第々々にその手足をもぎ取られて行く運命にあった。まずその最たるものが、<音楽性>である。「歌」の元々の由来である音楽性が、ラジオ放送、レコードの発達によって崩されてしまう。次に、歌が持っていた<映像性>が、映画の発達普及によって奪取される。詩歌が感性的理解を売り物にするとすれば、視覚には映画が、聴覚にはラジオ・レコードの方の直接性は圧倒的である。昭和の初頭にはこの勝負の大凡は決したと見える。萩原朔太郎がその詩論で、口語自由詩の<内在律>を言い、シュールレアリストの西脇順三郎が<イマジズム>を主張して俳句の世界に共感を示したのは、「歌」のジャンルにおけるこの勝敗の表れでなくて何であろう。尾羽打ち枯らした近・現代詩に残されたものが、もはや言語の持つ<意味性>だけであるとすれば、それは散文と同じでしかない。読者を失い、そしてまた優れた詩の書き手を失った新体詩は(小説家の才能を持っている若者が漫画家になっているのと同様、詩人の資質を有する若者はその大半が今ではシンガーソングライターになっている)、その発祥からようやく百年という時を経て、一体どこへ行こうとするのだろう。    しかし、何時のどんな時代であれ<言語>が芸術の素材としてきわめて優れたものであることに変わりはない。それは音声と形象、そして意味を持ち、しかも民族のきわめて深い所で、その疎通性は約束されている。民族固有の美しい言語が詩歌によって育まれてきたことは洋の東西、古今を問わない。獣のような叫びや、あぶくのような流行語、翻訳ということを一切忘れた生硬なカタカナ語の氾濫。そういう現代だからこそ、この困難な状況に向かって、新しいうたを、詩人はうたっていく責務があるだろう。
蛇足 神田神保町古書店街の変貌
  1960~70年代、戦前と相も変わらぬ旧世代の支配層が権力をふるう状況に、鮮烈なNO!を突き付けた学生運動が世界的なうねりとなって表れた時代、東京神田の駿河台や神保町を徘徊する青年は例外なく、サルトルの『嘔吐』やカミュの『異邦人』などを小脇に抱えていたものである。お茶の水橋から駿河台下に至る明大通り、そこを右折して靖国通りを神保町交差点まで、一方そのまま真っすぐに伸びているスズラン通り、どの通りにも大小無数の古書店が軒を連ねていた。詩人の西脇順三郎が「天国に最も近い街」と称し、著名な物理学者のY氏が「世界文化遺産に登録すべき街」と主張した、世界有数の世界に稀な古書店街がかつては形成されていたのである。
 だがやがて時代が下り2000年代に入る前後から様相は一変した。中央大学のキャンパスが西の郊外に移り、明治大学が師弟食堂やその他の施設を縮小、往来する学生もその姿を変えた。哲学書や詩集を抱えたやや蒼ざめた学生に代わって、この学生街には化け物のような大きなしゃもじを逆さに背負った若者が闊歩するようになった。それと呼応するように、古書店は櫛の歯が欠けるように次々と閉店し、代わりに楽器店、スポーツ用品店が幅を利かすようになって、「天国に最も近い街」は幻のごとく雲散霧消、今では見すぼらしい残骸を留めているだけだ。情報革命、情報機器の氾濫による変貌である。かくて「本」を読まない若者の増殖が始まった。彼らにとっての本は今や「マンガ」。書店からハードカバーの書籍のコーナーが消え、漫画コーナーが花盛り。
 かつての若者の楽器であった「新体詩」が消滅するのも当然の成り行きである。

補足   演歌の消滅