guteki’s blog

愚適庵の日文美術館

 自作の、詩集・小説・随想など、一文をわざと長くしたり、逆に短文にしたり、形式段落を長大にしたり、訳の分からない文体にしたり、
色々に描いたものを展示しています。

正読と誤読

正読と誤読

    辞書を引いてみるとおかしなことに気付く。「誤読」(誤って読むこと)という言葉は出てくるが、対義語とされて然るべき「正読」(正しく読むこと)という言葉は出てこない。これは何を意味しているのであろうか。正読するのは当たり前で誤読が問題だということだろうか。それにしても、正読がどういうものか、どうすることかが判然としなければ、誤読も判定できまい。そうであるにも拘らず、大学入試の現代文問題では、正解と誤読による誤解がある。正解は、正読による結果である。文章を正しく読めなければ、正しい答えは導き出せない。ところが、先の辞書のことで分かるように、正読がどういうことであるか、どうすることであるのかは誰も問題にしていないのである。実に面妖な話である。
    おそらく最大の原因は「言語自然習得説」という無意識裡に誰もが信奉している単純な言語観だろう。おギャーとこの社会に生まれ落ちた時から毎瞬毎瞬、毎日毎日、言葉のシャワーを浴びて生きているのだから、誰でも自分が生まれた社会の言語をちゃんと習得できるのは当たり前だ。そして誰もが皆その人物が属している社会共同体で何の不自由もなく暮しているのだから、言葉が正しく使えているのは当然である。但し語彙カの多寡、表現力の巧拙があるだけだ。明治に国民皆学になって以降、戦後に至る迄、正読とはどのように読む事を指すのか誰も何も問題にしなかった。その結果、現代の国語辞典に「誤読」はあるが、〈正読〉の項は無いのである。

    やがて、戦後のベビーブーマーが大挙して大学入学を目指す時代がやって来た。入試の競争率が驚く程跳ね上った。超有名私大だと学部によっては、倍率が二十数倍にもなった。大学全入の現代では信じられない程の競争倍率である。事ここに至って当然それ迄棚上げされていた正読・誤読の問題が意識されて来る。否、意識せざるを得なくなる。その典型が大学受験予備校の模擬試験問題、就中、国語の中の〈現代文問題〉である。選択式なら矢と浴びせられる質問疑問を何とか躱せるが、記述問題となるとそうは行かない。否でも応でも矢面に立たざるを得ない。これは相当の勇気と覚悟がいる事だ(ここを狙って受験ゴロが出てくる。特に現代文の記述設問に難癖をつけ、なにがしかの金銭を要求する強請(ゆす)り集(たか)りである。駿台でもこの手の事件があった。有名予備校の特に小説問題に狙いをつけて味を占めた受験ゴロが図に乗って駿台を標的にしてきたことがある。身の程知らずにも程があるが。この顛末はまたどこかで書くことにする)。例えば現在西暦2020年代の大学入試を見れば、文部科学省(旧文部省)の通達で大学は入試問題の正解を公表するよう要求されている。これは入試問題の不備があちこちの大学で頻繁に指摘されるようになった為でもあるが。それにしても、理系の学科の正解はまだしも、文系の特に現代文の記述設問の正解を公表するだけの勇気のある大学は国公私立共に無い。その代わり〈設問意図〉なる物を出してお茶を濁している。所が予備校の模擬試験の現代文の記述設問にあっては、そうは行かない。必ず正解を公表しなければならない。下手すると受験生、高校の教師等々から様々な質問、批判、非難、中傷の礫が投げつけられる。これこそが正解・正答だと言う確乎とした証拠、論理的合理的説明が出来なければならない。正読、正しく文章を読むと言う事を意識的自覚的に初めて追究したのは、従って予備校の現代文の教師である。その代表・先駆者が駿台予備学校で長年現代文科の主任教授をされていた、藤田修一師である(駿台の国語科は他と違って現代文・古文・漢文と明確に科が分かれていて、それぞれプロパーの教師が担当している。それから駿台では講師を先生とは言わず「師」と呼んでいた)。藤田師が提唱した「記号読解法」こそが文章を正しく読む事の意味とその方法を初めて明確に示した物である

記号読解法

    藤田師が提唱する記号とは、A=A′ A←→B A→B {    } の四つ。誰もが何処かで見た事がある物だ。そこがまず卓抜な所である。親しみ易い。読み(言い)方は順に、AイコールAダッシュ、A対(たい)B、AからBへ、並列(並立)。この記号を少しだけ哲学的?に説明すれば、〈物事の関係性を表す四つの基本概念〉と言う事になろうか。

    所で、朕は森羅万象であるとか訳も分からず宣言した何処ぞの脳天気な元首が居たらしいが、森羅万象つまり宇宙のありとあらゆる物は〈関係性〉において存在している。それは例えば『主体性の進化論』で世界的に著名な今西錦司の大著『相似と相異』にも表明されている。『主体性の進化論』は当時世界的趨勢であったダーウィニズムに真っ向反対の論で、ヨーロッパの学説に右倣えの日本にあって実に痛快な著作である。主張を簡単に独断的に紹介すれば、進化は自然淘汰云々によって起こるのではなく、〈その種の個体全員が悉く皆揃って進化したいと思った〉時に起こる。進化は受動的に起きるのではなく、正に主体的に起こるのである。人間の歴史を省ればそれは明瞭だろう。二十一世紀、文明進化の最先端にある筈の現代においてさえ非道な剥き出しの暴力が罷り通り、無辜の人民を塗炭の苦しみに遇わせている。どんなに聖人賢者が輩出しても人の世の中は原始から現代迄この通り何も変わっていない。詰まり、人類は進化なんて丸でしていない。していると思ってるのは上辺だけに過ぎない。

    話がかなり横道に逸れてしまった。今西錦司の『相似と相異』である。この書で今西は次のように言っている。宇宙にあるありとあらゆる物は「どこかちょっと似ていて、どこかちょっと異う」と言う関係において存在している。そしてそのような関係性において人間の認識が初めて成立する。仮にこの関係性にない物が目の前にデンとあったとしても、人間はそれを認識する事は出来ない。この「相似と相異」を言い換えればA=A′とA←→Bとなる。藤田師はこれに無常と併存と言う二つの様態を加えた。これによって宇宙のありとあらゆる物の基本的存在のあり方が把捉された事になる。これを簡単な例で説明すれば次のような事になる。

    ある一つの教室を考えて見よう。まずA=A′が出て来る。教室に居るのは皆、同じ人間だ。所が、この人間(生物)に対してA←→B机、椅子、床、壁などの無生物が存在する。更に若い学生に対して年を取った教師が居る。また更に男性に対して女性が居る。そしてこの教室を構成しているものは全て、刻一刻と変化している。即ちA→B。その証拠に先刻迄これだけ長かったチョークが黒板にあれこれ書いたので、ホラこんなに短くなった。そして、この教室にはA=A'とA←→BとA→Bとが{ 同時存在 }している。前二者に加えて後の二項を唱道したのは藤田師の慧眼である。

    さてそこで、宇宙のありとあらゆるものが、以上の基本的関係性において存在しているとすれば、それを言語文字で表現した文章には当然この関係性が表れている。ここ迄来て「正読」の説明が出来る事になる。「正読」の定義をすれば「文章の筆者の考え方、視点に即した理解をする事」となる。それはそうだ。相手が言っている事を勝手に解釈して非難しても不毛な議論にしかならないだろう。先方の主張を正しく理解して初めて批判が可能になる。何故誤解、誤読が生じるのか。それは、第一に言葉自体が様々な意味・陰翳を持つからであり、第二に同じ言葉でも人によってその受容の経緯が異なるからである。結果的に読み手の勝手な理解、誤読が起こる。加えて我々の日常の言語活動が「自己中心的」に行われているという実態がある。否応なく誤読が起こる。意識的・自覚的な正読の訓練をしなければ終に正しく文章を読む事は出来ない。大半の人間は、自分はちゃんと正しく読んでいる、と思い込んでいるだけだ(勿論、実用文の事を言っているのではない)。その思い込みに気付かせられるのは唯一、大学受験予備校の現代文の摸擬試験を受けた時位だろう。

    本題に入る。この四つの記号を使うと、正読が出来ると言うが、本当ですか。本当です。A=A′ A←→B A→B {    }を文章表現と言う観点から言い換えると順に、同義・同内容表現、対比・対立表現、転換・変化表現、並立・等置表現(「等置」、と言う言葉は辞書にない。文字通り〈等しい位置に同じ資格で置かれている〉と言う意味である)となる。これ迄の説明で分かる通り文章中にはこの関係性を持った表現が必ず出て来る。分かり易くするために、現代文の試験問題、設問を例にとって説明しよう。現代文の設問のほとんどは<傍線部説明>である。設問の要求は大概、「傍線部を分かり易く説明せよ」。傍線部だけで判断しようとすると、どんな理解でもできる。何しろ言葉はいろいろな意味を持ち、加えて読むあるいは解答する人間の日常的言語理解は自己中心的である。当然千差万別の解答が出てくる。しかも、解答した本人にとっては最も分かり易い説明である。それで良いのならば何だって正解になってしまう。そんなはずはあるまい。では、出題者が想定している正解はどのようなものか。当然、その文章を書いた筆者の考え方、視点に即した理解である。見ず知らずの会ったこともない赤の他人の筆者の考えや立脚点をどのようにすれば理解できるのか。大丈夫、記号読解によってできる。どう出来るのか。ここ迄読んでくれた人の中には、ああ、そうか、と分った方も居るかも知れない。そうです。設問されている箇所と〈関係性〉のある表現を〈文脈上〉で発見するのです。正読の第一の作業はここから始まる。設問されている箇所と同じような事を、ここでこう述べている。それと反対の事をこう表現している。設問箇所の前提がこうなっている。同じような他の事柄としてこんな事が言われている。とすれば、設問されている箇所は、こう言う意味内容になる。大袈裟に言えば文献学的手法である。これ以外に意味不明な表現に肉薄する方法はない。

     これを大学受験レベルの現代文問題で分かり易く言えば〈解答材料の発見〉と言う事になる。更に設問の解答へと言う事になると〈設問の要求に即した表現〉、即ち〈発見から表現へ〉になる。記述設問の正解の為の非常に判り易い受験生好みの公式のようになる。そこが逆に陥穽となり、誤解を生じる元ともなった。解答材料らしき物を取って来て、安直に繋げただけの答案を作る受験生が出て来てしまった。仕方がない。人間はどうしても安きに流れる。関係性として発見した内容は飽く迄も正しい理解を導く為の材料に過ぎない。一番肝心な思考作業を全くせずに答案が出来たと錯覚する受験生が出現してしまう。「記号読解」と言うと、アラ不思議!魔法の記号で忽ち解答が出来上ると早卜チリしてしまう。どうも仕方がない。それは兎も角、「正読」とはどう言う事か、その為の方法としてどのような文章理解の仕方があるのか、以上の説明で納得出来たのではないだろうか。

     当然この考え方、手法は部分だけではなく文章全体にも適用出来る。と言うより部分だけでなく全体も正しく読めなければならない。そうでなければ文章を読むと言う意味が抑も無い。この事に無自覚だったのが一時期の東大現代文問題である。設問の大半が部分理解を要求する物で、問題文全体の理解は殆ど不要だった。その性で受験生の中には、先ず問題文を通読し全体を頭に入れた上で解答するのではなく、問題文を読みながら傍線部が出て来るとそこで解答するという、彼等からすれば効率的なやり方をする者が多く見受けられるようになった。文章全体の理解が先ず肝心だと言う事を無視した弊害は入学させた学生の読解能力に顕著に表れたに違いない。それは恰度京大がある時期現代文問題から漢字の読み書きを無くしてしまった事と同じである。合格させた学生の読解力、文章力の低下に唖然とした。それはそうだ。現代日本語と雖も意味概念の中心を成しているのは漢字、漢語である。効率的?な受験勉強を当然とする受験生は漢字学習を完全に無視したのである。どうも物が良く分かっていない。