guteki’s blog

愚適庵の日文美術館

 自作の、詩集・小説・随想など、一文をわざと長くしたり、逆に短文にしたり、形式段落を長大にしたり、訳の分からない文体にしたり、
色々に描いたものを展示しています。

随想 心のこころ

  随想 心のこころ

 

一 自明の心・不明のこころ

 人は皆、誰もが心を持っている。それは自明である。「心無い」と言われる人も「人で無し」という「心」を持っている。この心の存在は、科学的に証明できない。物質的には、心は存在しないとされる。だが、人は誰も皆、自分には心があると確信し、その存在を疑うことはない。それは自明である。ところが、さてその中身、正体はと問われると、はなはだ不明である。自明であるはずの心に振り回され、悩み、苦しみ、怒り、泣き、喚(わめ)き、かと思うと、欣喜雀躍、あまりの喜びに手の舞い足の踏む処を知らず、という仕儀にもなる。また、悩んでいる自分を冷やかに眺めているもう一人の自分がいたり、わけの分からない衝動に突き動かされて、自分をどうにもコントロールできない自分がいたりもする。

 かつて次のような発句に始まる歌仙を巻いて見ようと思い立ったことがある。

吾が心なりとも識(し)らず吾が心

空(から)井戸覗く筒抜けの顔

なかなか良い発句と脇が出来たと独り悦に入り「吾心不識歌仙」と名付けて独吟で三十六句目まで満尾させようと、さて第三をと頭を捻って見たが、いっこうに出て来ない。肝腎の転の役目をする第三はついに出現しないままいたずらに十数年以上の歳月が過ぎてしまった。書き手の才能はともかくとして、このごろになってその理由がボンヤリと判って来た。歌仙の標題のとおりである。自分のこころでありながら結局それが何であるのか、今もって正体がまるで不明なのだ。不明なものを、書くという行為を通して分明なものにしてゆくという行き方もあるが、しかし、それとこれとは不明の次元が違う。難しいものは「難しい表現」によって正当に表現され、曖昧なものは「曖昧な表現」によってこそ正しく表現されると言った詩人がいたが、そういう次元の話である。要するに理屈で分かっても実地に体験しないことにはついに分からない。いわゆる冷暖自知のレベルの話である。しかし、そうは言ってみるものの、この不明のこころ、それを元にして人が生きるということのすべてが生起し開展している。人が生きるとは、自分が存在する環境を知覚、認識し、それに応じた反応、行動を毎瞬々々行っているということであり、又そこに価値判断や意味付けが絶えず行われているということでもある。その根源にあるのがまさにこの不明のこころであることは疑いがない。こころが働かなければ人は生きて行けない。そうであるとすれば、不明ながらも何か言わずにはいられないのが人間というもので、例えば、禅宗ではその宗教体験を言語道断、言詮不到と標榜しながら汗牛充棟、実に無数の言語文字による禅籍が存在している。そしてこの矛盾を彼らは次のように弁解する。言葉は月を指す指でしかない。ところが往々にして人はその指だけを見て肝腎の「月」を見ようとしない、それが問題なのだ、と。だが、具眼の人間にして初めてこんなことが言えるのであって、彼等が言うところの「凡夫」である我々には「指」を頼りにするしか方途がない。そう言うわけで、これから書き連ねるものは月を指す「指」でしかないが、この不明のこころを何とかして指そうとしている色々な「指」を、筆者のきわめて限られた視野からでしかないが目に入ったものを巡って、犬の川端歩きのように「月」のまわりをウロついてみることにしようと思う。

 

二 漱石の『こころ』

 「こころ」と言うと誰にでも馴染(なじみ)のあるのが、高校の教科書に必ずといって良い程採用されていた夏目漱石の『こころ』であろう。ご承知の通りこの作品は「先生」の自殺を扱った重い内容のものである。そうであるにもかかわらず戦後のある時期まで必ずと言って良いほど教科書に掲載されていたのは、青年期の主要なテーマがこの作品に盛り込まれている点にある。すなわち、友情・恋愛・将来の進路、そして青年期に特有の観念的自殺願望など。またこの作品のモチーフとなっている、お嬢さんを巡る先生とKとの三角関係については、仲の良い若者同士が同時に一人の女性を好きになるというのはありがちなことであるだけでなく、一人の女性を巡る二人の若者の対立・抗争は普遍的なもので、古くは菟(う)原(ない)処女(おとめ)や真間(ままの)手児奈(てこな)の伝説などにも見られる。しかも、このテーマは漱石の作品においては繰り返し表れてくる(例えば『それから』、『門』など)。それはともかく、高校の授業での『こころ』の取り扱い方は総じて、先生とKとの友人関係を軸にした心理的葛藤、および一つ家で暮らす事になった(実は、先生自らがKを自分の下宿先に引き込むのであるが、その家主の)お嬢さんと二人の青年との間に生じる心理の交錯、等々を追体験させる形のものである。人間の死という重い問題であるにもかかわらず、特に採り上げられるのはKの自殺に関わる場面で、そこには死一般だけでなく、青年期における観念的自殺願望に気付かせるという意図も見え隠れする。つまり、現実の人生を実地に生きるのでなく、それに先立って頭の中だけで人生に幻滅したり絶望したりする青年期に特徴的な心理傾向を指摘し注意を喚起する点にあるのが、教科書に採用されている大きな理由の一つであろう。ことに、先生の死に関しては現代の若者ならたいがい、疑問と反発を抱くに違いない。Kを死に追いやってまで自分のものにしたお嬢さんを一人残して死んでしまうというのは勝手過ぎやしないか。どう考えても納得できない。そういう疑問と反発を抱く。これに答えるために、作品中に記述されている明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死、西南の役で軍旗を奪われた恥辱を、死ぬ事もならず耐え忍びながら生きるしかなかったその苦悩の人生と、自分の所為としか思えないKの死と、自分のその後の人生を乃木将軍とパラレルにすることによる先生の死の選択、という新聞連載の最終回(五十六)の記述を出して来るというやり方をする。明治天皇の死を「明治の精神が終つたやうな気がした」と先生に言わせたのは、漱石自身の実感であったかも知れない。従って近代文学研究者の中には先生が「笑(じょう)談(だん)」で言った「もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ」という言葉を反語的なものと取り、明治の精神に殉じた先生の死という批評をしたりもするが、授業でいきなりこんな説明をするのはフライングみたいなものなので、夏休みなどを利用して全篇を生徒に読ませるという指導をするようである。確かに、この作品全体を明治精神の葬送の暗喩と取れば、様々な陰影・解釈が出て来るであろう。ともあれ、以上のような扱いをするのが高校の授業での常套のようだが、もちろん他の視点もないわけではない。例えば社会的な観点から、いわゆる「高等遊民」なる登場人物を漱石が設定したのはなぜかを考察させることも可能である。ただし、漱石の作品全体を貫くモチーフとしての「エゴイズム」はむろん指摘されなければならないだろう。漱石は人間の利己心を、洗い落とし洗い流しても次から次へと際限なく出てくる、垢のようなものだと考えている。

  漱石作品の主要モチーフであるこのエゴイズムは(利己主義に関しては『こころ』の中では「イゴイスト」などと表記されている)まず、三部構成の最初、「先生と私」の終盤に出て来る。先生の父親の死を契機とする、善人面をした叔父の「不徳義漢」への豹変である。遺産の大半を掠(かす)め取られた先生は、それによって「屈辱と損害」を「死ぬまで背負わされ通し」になる(上・三十)。それは三部構成の二番目、「両親と私」に移る直前、父親の病状の悪化の報せで故郷に帰る事になった私に「お父さんの生きているうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」(上・三十三)と先生に言わせている。そして第二のエゴイズムは、Kと競ってお嬢さんを奪い取ったことであり、第三は、いかに経済的な心配がないとは言いながら、大事のお嬢さんを一人残して死を選んだことであろう。この決断はKとお嬢さんの争奪をし、その結果として彼を死に追い込んだという先生の自責の念によると理解するのが普通である。この自責の念は自分自身のエゴイズムに対する先生自身のこころの分裂から生じていると見ることができる。現代の我々からすれば結局、良心の呵責に絶えられなくなった結果として先生は死を選んでしまったのだということになる。しかし、この選択も見方をお嬢さんの側に変えれば、先生のエゴイズムに他ならない。ただし、こころの問題に立ち返って見ると、なるほどこの作品で先生の心理が克明に描写されているのは、「自己の心を捕へんとする人々に、人間の心を捕え得たる此作物を奨(すすむ)む」(『心』広告文)の通りであるが、その「心」が出て来る元のところ、肝腎の根源には蓋がされたままである。自明な心なのに、不明なこころ、の方は描出されていない。この犬の川端歩きのような雑文で「指」差そうと目論んでいるのは、漱石の作品では閉じられている、不明なこころの方なのである。

 ところで、『こころ』を読んでいて些細なペダンティックな言辞として注を一瞥しただけでやり過ごしてしまう人名が、Kの口からさり気なく吐き出されている。「シュエデンボルグ」。ほとんど気にも留めず問題にされることもないと思われる固有名詞なのだが、川端歩きの犬は、どうもここを嗅ぎつけて動きそうにない。そういうわけで、次にこの辺りを彷徨してみることにしよう。(「シュエデンボルグ」については、英文学の方からのアプローチもあるようだが、それはともかくとして、近年の一般的表記は「スエーデンボルグ」で、参照した文献に従って「スエデンボルグ」と表記した箇所もある。)

 

三 漱石・スエーデンボルグ、そして鈴木大拙

 「シュエデンボルグ」は、一般にはスエーデンボルグ(本国の呼び方ではスヴェーデンボリ)と表記される十八世紀初頭、スエーデンに出現した偉大なオカルティスト(神秘主義的キリスト教者)である。この人物を漱石は一体どこから仕入れたのだろうか。寺に生まれたという設定になっているKの資質、「先生」との大学における専攻学科の違いを暗示するという意図で用いられた言辞と単簡に見ても構わないようなものだが、それにしても漱石の宗教的シンパシイは仏教、特に禅宗にあり(例えば『草枕』の世界、あるいは『門』の最後に出て来る参禅の場面など)、たとえ、英文学研究をした学者である事を足して計算してみても、キリスト教の世界はほとんど出て来ない(加えて、キリスト教世界において「自殺」はタブーの最たるものである。なぜなら、人間の生命は「神」によって与えられたものだから)。ちなみに、漱石山房書籍目録の中にはスエーデンボルグの著作は見当らない。さすがに国費で英国ロンドンに留学し彼の地の文学研究をその使命としただけに、スエーデンボルグと同時代のイギリスの神秘主義的詩人、ウィリアム・ブレイクに関するものはある。また、一九〇八(明治四一)年の日記的断片にMiracle ocult art and occult nature / Swedenborg という記事があり、漱石研究家によれば、彼は通常の日記はほとんど付けず、何か新たな作品を書く時に断片的に日記的なものを付けるということなので、あるいはこの作品との関連を見ることができるかも知れないが、そのような文学的研究がこの随想の目的ではないので詮索はしないでおくとして、さてそれでは一体、漱石は何処からこの「シュエデンボルグ」即ちスエーデンボルグを自家の薬籠の中に入れたのだろう。そこで、スエーデンボルグを最初に日本に紹介した人物を当たると、漱石と同時代の鈴木大拙が手繰り寄せられて来る。

 大拙は、オカルト的な事はいっさい口にしないはずの禅宗、の学者である。明治期は周知のとおり 西欧文明が日本に澎湃(ほうはい)として押し寄せた時期で、それは宗教世界でも例外ではなかった。加えて国内では排仏毀(き)釈(しゃく)の嵐が吹き荒れ、在来の仏教は存亡の危機に陥っていた。そこに馥郁(ふくいく)とした新たな文明の香を撒き散らしながら登場したキリスト教は、まだ三十代の少壮の仏教者、禅学徒であった大拙にとって到底無視できないものであったに違いない。彼はその経歴、語学的資質もあって、一九一〇(明治四三)年にロンドンで開催された世界スエーデンボルグ会議に日本代表として出席しており(そもそも大拙は、アメリカ人ポール・ケーラスが『道徳教』英訳の際の手伝いを捜していたとき、一八九三(明治二六)年アメリカ、シカゴで開催された万国宗教会議での縁もあって、当時彼が師事していた鎌倉円覚寺の管長・釈宗演の推薦によって渡米、そのまま出版社の嘱託の仕事をしたりしながら彼の地に十二年ほど滞在、明治四十一年頃になって、旅費などの援助を得てアメリカからドイツ、フランスなどヨーロッパ各国を回ってさて日本に帰ろうということになった際、イギリスでスエーデンボルグ協会の招きを受けていたのであった。おそらく仏教に関する知識があり、英語に堪能であるという情報がアメリカから伝えられていたのだろう)スエーデンボルグの主要な著作の翻訳も行っている。それにしても、正統のキリスト教ではなく、なぜ異端とされる神秘的キリスト教なのか(スエーデンボルグが活躍したヨーロツパでは十八世紀といえども伝統的な正統のキリスト教会が威厳を保っていた。従って、スエーデンボルグは本国での出版を憚(はばか)り、この事に比較的寛容で自由であったイギリスで、その著作の大半を出版している)。大拙の著書「スエデンボルグ」の「緒言」にそれを見ると、大拙はスエーデンボルグ研究の必要性・面白さとして次の三点を挙げている。

   まづ彼は天界と地獄とを遍歴して、人間死後の状態を悉く実地に見たりと云ふが、その云ふところ如何にも真率にして、少許も誇張せるところなく、また之を常識に考へて見ても、大いに真理に称へりと思ふところあり。

   此世界には、五官にて感ずる他、別に心霊界なるものあるに似たり、而して或る一種の心理状態に入るときは、われらも此世界の消息に接し得るが如し。此別世界の消息は現世界と何等道徳上の交渉なしとするも、科学的・哲学的には十分興味あり。

   スエデンボルグが神学上の所説は大いに仏教に似たり。我を捨てて神性の動くままに進退すべきことを説くところ、真の救済は信と行との融和一致にあること、神性は智と愛との化現なること…(中略)…此の如きは何れも、宗教学者、殊に仏教徒の一方ならぬ興味を惹き起すべきところならん。

まず、スエーデンボルグが天国や地獄に本当に行ったのかどうかの事実は措(お)くとして、記述されている内容が真理にかなっているということ。次に、五官で感じる次元を超えた別世界、例えば仏教で言う悟りの世界、のようなものが認められ、科学主義の近代において研究対象とされてもおかしくないということ。そして、彼の所説には仏教のそれと近い所があるということ。少壮気鋭の学者としての興味も勿論あったであろうが、以上のような理由から大拙はスエーデンボルグの著書の翻訳、出版を行ったということになる。

  スエーデンボルグの主著と言える『天界と地獄』の翻訳刊行は、一九一〇(明治四三)年(ロンドンでの世界スエデンボルグ会議出席の折に、滞在先のホテルで昼夜兼行で翻訳したようである)。漱石の『こころ』は、朝日新聞誌上に、一九一四(大正三)年四月から八月にかけて連載された。時間的関係から見て、漱石が大拙の翻訳を通してスエーデンボルグに接したと推察してもおかしくはない(Kに「シュエデンボルグ」と発音させている所がやや引っ掛からないでもないが)。それはともかく、なぜスエーデンボルグが『こころ』に出て来たのだろう。それを考察して見る前にスエーデンボルグの『天界と地獄』の要点を、キリスト教とは無縁かつ、まったく無知な人間である筆者の観点から独断的に裁断してみると、大凡次のようなことになる。

人は天界(神)から流入して来た精霊をその生命の実質としている。肉体はその器に過ぎない(これは漢民族の魂と魄の考え方に類似している)。

死後の世界がある。それは「最後の審判」があるという聖言によって明白である(スエーデンボルグによれば、「最後の審判」は既に何度か行われているらしい)。

死後、「復活」した人間は一時的に「精霊界」に入る。

その後、生前の神への信と愛との度合いに応じて、「天界」と「地獄界」に振り分けられる。

ただし、幼くして亡くなつた子供は別で、天界で養育される。(これは、親に先立って亡くなった子供が賽(さい)の河原(かわら)で鬼に石積みの苦役をさせられる日本の話とは正反対で、子供を無垢なものと見る西欧近代の考えが揺曳(ようえい)している。)

「自有の愛」(大拙の訳語。自己愛・自我愛・利己心と同義)に住した生涯を送った者は、たとえそれが国王、権力者であろうが大富豪であろうが、例外なく地獄に送られる、と言うより、自ら好んで地獄に逆落しになって赴く。

「個人」は消滅することなく、常在する。(アダムとイヴ以降、人間として生まれた者は全員、その個人としての存在を「復活」の形で維持している。西欧の牢固とした「個」の観念が示されていると言える。)

大著ではあるが、これ以外は天界と地獄の様態の具体的(実地にスエーデンボルグ自身が見たとする)記述で占められているので、筆者の貧弱な読解力によればこの著作の要点は右のようなものである。ところで、漱石がスエーデンボルグを大拙訳で読んだと仮定して(スエーデンボルグの著作の大半はラテン語で、大拙が訳出したのは原典を英訳したものである)、「シュエデンボルグ」と漱石の『こころ』との結節点は「自有の愛」つまり、自己愛、利己主義、エゴイズムという点に求められるのではないだろうか。また「地獄」は仏教徒的日本人にも理解しやすい。ちなみに一九三一(大正三)年五月に大拙により翻訳刊行されたスエーデンボルグの『新エルサレムとその教説』(スエーデンボルグは後に、因襲に凝り固まって、神への本来の信仰を失ったと彼の目に映る従来のキリスト教会に対して、「新エルサレム教会」を創設する。スエーデンボルグによれば、「新エルサレム」は最後の審判で世界が破滅した後の黙示録の世界に出てくる天上から降臨する新たな聖地である)には「自我の愛と世間の愛」という章が設けられて、利己的人間のことが詳しく述べられている。学習院の学生たちを前にしての講演『私の個人主義』で漱石が表明した「自己本位」と、それに対置すべき「エゴイズム」をどのように捉えるかという点で、このスエーデンボルグの所説を参考にしようとしたのではないかという推察が可能である。

 

四 大拙・ユング、そして唯識仏教

  人間の心理を克明に描写するのは近代小説一般の特色だが、最初にも指摘した通り、その元にあって様々な人間心理を発動させている根源に対する追求はほとんど閑却されたままである。人間とはこのようなものだ。このように仕方のないものが人間だ。という人間のありのままの姿を描くことに終始したのが西欧近代小説である(日本の近代小説も当然軌を一にしている)。近代小説のこの行き方は、二千年の長きにわたって聖俗両面で西欧世界を支配したキリスト教に対する反動としてのヒューマニズムであると同時に、一方で自分のこころを外在的な「神」にすべて預けてしまってその内的探究を棚上げにしてしまった結果だとも言える。これと対比した時、東洋、殊にインド世界においてはこの心の根源の探究が古く(紀元前八世紀に始まるとされるウパニシャッド哲学、あるいはもっと古く既にインダス文明の時期から瞑想法が行われていたとされる)から行われていた。その伝統の中から出て来た仏教がやがて中国に伝わり、漢民族の性格に根差した新たな展開をする(思弁的で非行動的なインド人に対して、現実的日常的で、かつ実際的な中国人については、中村元の『東洋人の思惟方法』に詳説されている)。人間の「こころ」を考察しようとする時、したがって中国人の行き方を見るとその在り処が把握し易い(もちろん、アウトラインでしかないが)。例えば次のようなエピソード。中国における禅宗の第一祖とされるのが、子供でも知っているダルマさんである。その法を嗣いだのが二祖の慧可で、慧可についてはこれまた、雪舟の「慧可断臂図(えかだんぴず)」で誰もがきっと見て知っているはずである。面壁して坐っている達磨の後で、雪に腰まで埋もれ、ややしょぼくれたしかめっ面をして、切り落した自分の臂(ひじ)を捧げて立っている人物が慧可である。インドから中国にやって来てはみたものの、法を伝える機はまだ熟していないと判断した達磨は少林寺に籠もって時が来るのを待つことにした。誰が来ても会おうとしなかったのである(面壁九年)。ところが、慧可のこの求道心の激しさはさすがに彼の心を開かせたと見えて達磨は入門を許すことになるのだが、慧可をしてここまでさせたものは、まさに自分のこころをつかみたいという必死の思いであった。それは儒教的な教えで埒が開く類いのものではなかったのである。自分のこころが何だかわからなくて不安で不安で仕方がない、と訴える慧可に対して、達磨は次のように言う。「その不安でどうしようもないという、こころ、とやらをここに出して見せてみろ」言われて慧可は詰まってしまった。そしてやがて有名な次の場面が出現する。「こころを求むるに不可得なり」と吐露した慧可に間髪を入れず「汝のこころを安心し竟(おわ)れり」と達磨が宣言したその刹那、慧可は不可得の「こころ」をつかんだ、と言われている。あるいはまた、河南の山奥で木樵りをしていた中国禅宗の第六祖慧能の発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)の契機となった言葉もその消息を示している。「応無所住而生其心」、お寺では、おうむしょじゅうにしょうごしん、とそのまま音読みするようだが「まさに住する所なくしてそのこころを生ずべし」と金剛経に説かれているまさにその「こころ」である。不立文字を標榜する禅宗の中にあって、倦むことなくしかも英語で、以上のような内容の膨大な量の著作を生涯し続けたのが鈴木大拙である。彼の業績によって、仏教(禅仏教)が近代の欧米人の間に広く流布されることとなった。その影響を受けた人物の一人に、C・G・ユングがいる。

  ユングはG・フロイトと共に西欧近代心理学の礎を築いた人物で、生没年は一八七五(明治八)年から一九六一(昭和三六)年。大拙が一八七○(明治三)年から一九六六(昭和四一)年なので、両者ほとんど同時代を生きている。やがて師匠であったフロイトと袂(たもと)を分かち、ナチス・ドイツによる圧迫もあってスイスに移住、その地で研究を続けた。先に述べたように、大拙が世界スエデンボルグ会議に出席したのが一九一〇(明治四三)年。ユングがこの会議に出たかどうか定かではないが、彼は翌一九一一(明治四四)年に国際精神分析協会を設立している(ユング心理学は分析心理学の名で呼ばれ、日本で初めてユング派の分析療法家の資格を得て、これを日本に紹介したのが河合隼雄である)。あまりにも圧倒的な「神」の存在によって自分のこころの探究を棚上げにしてしまった(と筆者のような東洋人からは見える)西欧人の中にあって、初めて自らの心の内部を覗こうとした西欧人の一人と言ってよい。もちろん、そこには「神は死んだ」という宣言に代表される、西欧近代におけるサブジェクト(創造主)とオブジェクト(被造物)の大転換という時代背景があることは言うまでもないが、ユングは単なる学者としてではなく、臨床心理学者として、実際に神経症の患者の治療に当たった。それ以前は、スエーデンボルグもそう考えていたが、人間が狂気になるのは神の配剤によるとされていたのだが、ユングは、例えば二重人格の患者の治療体験から、主人格に対して何らかのスイッチによって突如(とつじょ)、主人格を押し退けて副人格が前面に出て来ること、そして、この主人格と副人格とは互いにまったく相手の存在を知らないこと、などから否応なしに人間のこころの構造を想像せざるを得なくなる。すなわち、通常表れていてわれわれが「心」と思っている「意識」に対して、その心が意識できないこころの領域、即ち「無意識」が別に存在すると考えるしかない。むろんこれはユングの師であるフロイトによって既に説かれていたが、フロイトはこの無意識の出所を「リビドー」なる用語に代表される、人間の本能的、性的なものに求めようとする傾向を強くし、ユングはそれとは別に独自の探究に向かうことになった。

  人間のこころの構造として無意識の層を仮定する必要があること、また、夢を重視するという点ではフロイトと同様であるが、そこから先がフロイトとは完全に異なる。ユングは無意識の扱い方、理解の仕方をフロイトとは違ったもっと広い世界に展開した。ユングの著作も膨大であるが、専門的で難解と見做され普通の人にはほとんど知られていなかった。それを親しみ易く興味の持てるものにしたのが一般人向けに書かれた『人間と象徴』であろう。これはユングの最晩年に彼の監修の下、ユング派の学者を動員して書かれたもので、写真や図版が豊富に使われていて心理学に関心がない者にも、読んでみようかな、という気にさせる著作に仕上がっている。人間を巡る内的・外的現象を象徴と捉え、ユング自身が直接執筆した「無意識の接近」を初めとして、「神話」「個性化」「美術」「分析」などの切り口から象徴の意味するものを豊富な図版や写真を交えて解説したものである。それによって心が意識できない無意識の層の探究のための興味と大きな手掛りが専門的研究とは無縁の一般人にももたらされることになった。それはともかく、ユングにおいてはこの無意識には初めに考えられていたものよりももっと深い層のあることが想定されるようになった。当時抬頭して来た構造主義的民族学の研究成果などもあるいはヒントになったのではないかと思われるが、人類に共通の夢の層、すなわちより深い無意識が構想されることになった。英語訳(原典はドイツ語)によれば、無意識の浅い層を指して「個人的無意識」と呼び、それより深層にある無意識を「集合的無意識」と名付けている。この集合的無意識層は、世界中の各民族に共通の神話的要素が蔵されている部分でもある。互いに交流が不可能であったはずの遠隔地にある民族に、同じような神話が数多く存在している理由を、ユングはこの人類に共通の「集合的無意」層に求めた。「個人的無意識」がその人の成長過程を通じて形成される(特に、抑圧によるコンプレックス。「劣等感」もコンプレックスの一種である)のに対して、人類に普遍的に保持されているこころの基底部分と想定したのである。つまり、ユングはそれまでの西欧人が考えることのなかった人間のこころの構造を、意識と意識が意識できない無意識の二つに大別し、更に、無意識の層を個人的なものと集合的なものとに分けるという考え方を示したのである。そして、意識の中心をエゴ(自我)とし、無意識と言うより、むしろこころ全体の中心をセルフ(自己)と命名した。また意識と無意識の領域の規模については、ほんの僅かな領域しか持たない意識に対して、圧倒的な広がりと深さを有する無意識という見解を示している。よく使われる「無意識の大海に浮かんでいる意識という粟粒(あわつぶ)」という比喩に、ユングが捉えた両者の関係が如実に示されている(実は、これと同様の無意識内容は既に唯識仏教で述べられていて、無始・劫初以来の種子熏習(しゅうじくんじゅう)によって、人間の意識の内奥には無限の領域があり、そこに無数の心的要素が蓄えられていて、それが種子としての阿頼耶識の姿であるとされる。それと同様にユングにおいても無意識の中には意識の想像を絶する膨大な情報・内容が蔵されているとされる。しかも、それは渾沌無秩序をその特徴とするので、何らかの原因でこれが一気に意識の領域に浮上して来ると、意識はそれに呑み込まれて、いわゆる、人格破壊が惹き起こされてしまう。ユング的に言うと、この状態が統合失調症(分裂症)である。その人間の知能・知識・体験からして絶対に知り得ない、あり得ない内容の事柄を口走ったりすることになる。したがって、スエーデンボルグについても、現代心理学の学者の中にはこの統合失調症であると断定する者もいる。しかし、ここではユング心理学の話をするのが目的ではないので、エゴとセルフとに関する多少の考察をするだけに留めておく。こころ全体の中心を「セルフ」としたユングは、しかし、この概念をどこから持って来たのだろうか。ユングによれば「セルフ」は、こころの最深部にあって、その人間を開転させている当体である。従ってこの「自己」こそが自分を「自分」に形成させる潜在力・駆動力であり、無意識のこの働きにエゴが気付くことをとおして、人はあるべき本来の自分へと成長して行く、という考えが提示されている。いわゆる「自己実現」である(これは「自分探し」という言葉で日本でもブームになったことがある)。これによって人の精神的、人格的成長が達成されるとユングは考えた。このユングのこころの構造、それぞれの領域の主体としてのエゴとセルフという考え方に接すると、仏教に多少の興味と知識を持っている日本人ならば誰もが即座に、唯識仏教が主張するこころの構造を思い浮かべるはずである。

  唯識が主張するこころの構造は、簡単に言うと、前五識、後三識に分かれる。前五識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識で、われわれが言う所の五官と五感である。そして、感覚器官を通して外界から入って来たこれらの感覚刺激を受容・統御し、認識・判断をするのが、後三識の入り口にある第六識の心識である。ユングのこころの構造に対応させると、この前五識と第六識の心識までが「意識」に相当する。これに対して残った第七識と第八識、即ち「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」が「無意識」に相当する。こう見るとユングのこころの構造と唯識のそれとはうまく対応していて、ユングの考え方から難解な唯識の考え方の理解ができるのではないか、あるいはその逆もと期待されるが、こう見るのは早計のようだ。第一に、こころの伝統が東洋と西洋とではまったく異なる。神一元の西洋に対して、東洋ではだいたいにおいて多神論である。神によってこころが作られたと考えるか、反対にこころこそが神を作ったのだとするのか、立場によって様々だが、これをもってしても、ユングと唯識のこころの構造を単純に同一だとすることはできない。唯識においては末那識が無意識の浅い層にあり、ここがエゴすなわち自己愛・利己心の棲家(すみか)でその発動場所とされる(エゴイズムの本体が無意識にあるとする点、かなり興味深いものがある)。さらに深い層の無意識である阿頼耶識は、これこそがインド人が古代から信じている輪廻転生の正体とされるものだ(もちろん、瑜伽(ゆが)(ヨーガ)行派を中心とする唯識の考え方ではあるが)。この阿頼耶識の開展によって、人は生まれそして死に、その生前の業(ごう)により新たな存在へと転生する。それも、人間界とは限らない。いわゆる六道の世界を永遠に生まれ変わり死に変わりする。六道の最上層の天上界の天人といえども、この輪廻から逃れることはできない(天人五衰)。見てのとおり、スエーデンボルグの世界観(死後観)とはまったく相違する。そしてさらに、ユングが無意識の根底、こころの主体と想定している「セルフ」ともまったく異なる。ユングにあっては人間のこころの構造、仕組こそが最大の関心事であって、人間存在全体の成り行き、例えば死後の世界のことなどは、近代の科学者らしく心理学的現象としての考察はしているが、いわゆる研究対象にはしていない。ただし、一つだけユングにはおかしな著作がある。タイトルからして変で『死者への七つの語らい』という本である(もっとも、これは私的な小冊子として個人的に出版したもので市販されていない)。

  ある夏の日曜日、やや遅い昼食をすませて家族で寛(くつろ)いでいると、玄聞で呼び鈴が鳴った。奥さんが出てドアを開けて見ると、誰もいない。空耳かと皆思ったが、玄関でまたベルが鳴った。今度は女中さんが玄関に出てドアを開けた。だが誰もいない。変だねと話しているその時またベルが鳴った。なんだ、きっと近所の悪戯小僧の仕業に違いないと、逃げる間のあらばこそ今度はユング自身が玄関に走りすかさず扉を開ける。やはり、誰もいない。おかしなことがあるものだと思いながらユングは自分の書斎に入った。さて仕事にかかろうと机に向かうと、遠くから何やらガヤガヤと大勢の人声がする。初めは何を言っているのか判別できなかったが、どうやら無教の人間が自分の家の玄関からユングのいる書斎に向かってゾロゾロと行進して来ているような気配がする。やがてユングの部屋が実に大勢の人間でビッシリ埋めつくされた感覚、雰囲気がすると共に、不明瞭だったガヤガヤ声がユングの耳にハッキリ聞こえてきた。「行って来た、行って来た。だが、何もなかった。何もなかった」口々にそう喚いている。この時ユングはさすがにゾッとした。自分の精神がおかしくなったのではないかと思った。だが、さすがは科学者、ここで気を取り直して、ともかくもいま無数の人間の声が自分の耳に聞こえているのは確かである。姿は見えないものの大勢の人間が自分の部屋を埋めつくしているという感覚があるのも事実だ。いったいどういうことになるのか最後まで見届けてやろうと肚をくくった。すると、言っていることがさらに明瞭に聞こえてきた。「エルサレムに行った」「行ったが、何もなかった」「何もなかった」「帰って来た、帰って来た」と口々に言っている。どうやらドイツで亡くなった人々が大挙して聖地エルサレムに行ったが、何もなかったのでスゴスゴと引き返してきたものらしい。それら大勢の死者たちが途方に暮れて、自分たちはいったいどうしたら良いのかユングに聞きにやって来たということのようである。そこでユングは彼ら死者たちの質問に答える形で対話をすることになった。それを記したのがこのおかしなタイトルの著作である(以上は『ユング自伝』の中の記述を元に、かなり脚色したお話にしてある)。その内容は措くとして、スエーデンボルグが精霊界で、亡くなったばかりの知人と出会った話が思い合わされる。彼は自分が死んだとは思っておらず、スエーデンボルグに、ついさっき君が埋葬されるのを見て来たところだと言われて非常に驚いたという。聖地エルサレムに行けば神か天使が現れて導いてくれるだろうとあてにしていた死者たちは、何も起こらないので失望し、故国へ舞い戻って来たというユングのこの話に符合する点があって、西欧人の死後観を理解する上で一つの材料になると思われるが、これを追って行くとまた横道に逸れてしまいかねないので、話を元に戻すと、ユングはどこから無意識の下層、集合的無意識の中心である「セルフ」を構想したのだろうか。しかもこのセルフはその人間が本来なるべき人間となるように促し、駆動する働きをしていると主張する。キリスト教世界にあっては、そのようなことができるのは「神」だけであるはずで、一個人の中に心の中心があってそのような主体があるなどということは、発想自体があり得ない(インドのヴェーダンタ哲学には、アートマンとブラフマンなるこれに類する考え方がある)。そう考えると、ユングの東洋思想への関心、なかんずく、鈴木大拙との交友とその影響を考える必要が出て来るであろう。ユングは東洋思想、特に仏教に相当の興味を抱いていて、大拙の著作『禅への道』の最終節にある「ユング博士の禅観」という一節からもそれをうかがい知ることが出来る。大拙のこの著作の中にユング自身によって書かれた仏教(禅)に関する文章の翻訳が引用されていて、そこには大拙を初めとする英語で禅に関する著作をした日本人学者の説も援用しながら、仏教における「悟り」を巡って西洋人にとって分かり易いキリスト教の神秘主義との対比を軸に、西洋人としてまったく未開の世界に迫ろうとするユングの真摯な姿勢が認められる。少なくとも一九三〇年代に両者はロンドンで会談しているらしい。そういういきさつもあって、一九三三(昭和八)年にオルガ・フレーべ・カプタインというイギリスの女性神秘家が創設した、彼女が所有するスイスのとある湖畔にある屋敷で毎年開催され、ユングもその正会員として参加していたエラノス会議に、東洋人として初めて招かれ講演をしている(エラノスは古代ギリシア語で晩餐会の意味。会の主旨は世界中から様々な分野の学者、研究者を招待し、講演をしてもらい、それについて論じ合うことにあった)。ともあれ、大拙とのこのような関係、影響からユングは「セルフ」を導き出して来たのではないだろうか。この「セルフ」は仏教における「仏性」に近いような感じがする。「セルフ」の由来をキリスト教のグノーシス主義とする理解がよく行われているが、ユングの「セルフ」にはグノーシス主義に色濃く見られるゾロアスター的善悪二元の要素は希薄だし、「セルフ」を外部から来る覚醒者・救済者としてのキリストと見る要素も希薄である。さて「仏性」は西欧風に言えば、万人の心の中に内在している「神」のようなものである。二千年にわたり彼らが外在的なものと見ていた神を、ユングは西欧人として初めて内在化させたと言って良いかも知れない。もっとも、「仏性」は現実的・行動的な中国人が「こころ」を一個の石ころのように単純化したもので、万人に共通の、「理性」よりももっと深い、人間を全的に「人間」たらしめる働きをしているものである(同じ次元では論じられないが、西欧中世の錬金術師が目指した「ラピス」と言った方が近代人にはイメージし易いかも知れない。尤もこれも外在的に考えられているものだが)。そして特に、中国の唐代に全盛期を現出させた禅宗においては、その修業の眼目が「己事究明」であり「究明」されるべき「己事」とは即ち自らの中にある「仏性」である。したがってそれは理屈ではなく、自分で実地に捕まえられなければならない。そういうわけで、中国人の、少なくとも禅宗の坊主にあっては、意識とか無意識とかいうことは学者のやる閑葛藤・屁理屈として退けられ一切問題にされない。したがってユングのこころの構造、その中でも「セルフ」を考える時、それと対応していて理屈(理性)による考察の手掛かりとなってくれるのは、唯識仏教が説いている阿頼耶識である。

  そこでもう一度唯識について、その歴史を簡単に見ておくことにしよう。唯識仏教(哲学・思想)は、紀元二・三世紀、龍樹に代表される「空」思想を展開した中観学派に対して、紀元四世紀頃、徹底的なヨーガ(身心統一を目指す実践的修業)を通してインド人にとって最大の関心事である輪廻の主体を自己の内部に追求した瑜伽行派によって形成されたものであり、それが玄奘三蔵らによって中国にもたらされ法相宗となり、やがて日本に入って来る。この唯識の学問寺として代表的なものが、奈良時代には興福寺・法隆寺・薬師寺であった。平安時代には清水寺がその役割を担ったが、明治期の排仏毀釈で連綿と続いた学統は衰え、戦後、法隆寺によって復興され、今日に至っている。極めて精緻な東洋的哲学体系で、日本における典籍の大半が玄奘訳を始めとする漢文であるため、その用語の難解・難渋さもあって、一般人にはとうてい近寄ることのできない高く厚い壁の彼方にあるようなものでしかなかった。さて、瑜伽行派は理論体系に即した実践的修業によって自分のこころを徹底して観て行った結果、こころの内奥に輪廻転生の当体としての阿頼耶識を如実につかんだのである。そしてこの阿頼耶識こそが、人間を胚胎、発生、誕生、成長させ、そして死に到らしめるものであり、死後、それがまとった業によって人を輪廻転生させるものであると捉えた。古代インド人の考え方だと、この輪週の鎖を断ち切り、ニルヴァーナ(涅槃寂静)の世界に入らない限り、人は永遠の苦の世界を転変しなければならない。釈迦の修業の動機もここにあった。ところで、残念ながら筆者には唯識の内容にまで立ち入る能力も知識もないので、これ以上深入りすることはできない。そこで、唯識が実践的学問体系として最終的に目指すものを単純化した形にして取り出してみると、理論に即した段階的修業による「根源的一者」の把捉ということになる。要するに釈迦の悟りを悟ることによって、自分を彼岸に度(わた)すことが彼らの最終到達点であるらしい。しかし、徹底的な苦行を実践するヨーガ行者、峻厳な修業に徹する仏教僧にはとうていなれそうにないわれわれ一般人にそれは無理だ。いったいどうすれば良いのだろう。そう思った時に浮かんで来るのは、やはり近代的な装いをまとったユングのこころの考え方ということになるのではないだろうか。ユングの分析心理学は、神経症の患者の実際的治療が元になっている。そしてそこから想定された人間のこころの構造、特に意識と無意識との相克が人間の全体的統合、人格形成、自己実現を阻害しているという考え方に立ち、意識が意識できない無意識を意識が認識し受容する、その方法の一つとして「夢」を重要視する。確かに夢なら誰でも見ることができる。しかし、大抵の場合「変な夢を見ちゃった」で意識はこれを無視するか、忘れるかしてしまう。自分自身の理解や自己の成長にこれが大いに関与しているとは夢にも思わない。しかし、もう一度飜(ひるがえ)って、自分のこころを知りたい、つかみたいと思っても苦行や修業などはとても無理な私どものような凡人にとっての唯一の方途は、やはり「夢」であろう。そういうわけで、次にこの「夢」を巡って少々川端歩きをしてみることにする。

 

五 夢・スエーデンボルグと明恵(みょうえ)、そしてこころ

  誰でも夢は見る。夢を見させるのはいったい誰だろうか。お伽噺では夢の精が出て来る。眠っている人が夢の精の魔法の杖でコツンとやられると、夢を見る。メルヘンチツクでほのぼのとする説明だがしかし、子供ならともかく大人でこんな説を信じる者はいないだろう。夢を見させるものは誰か、あるいは何かと言うと、例えばスエーデンボルグは神が見せてくれる「大夢」以外の夢は精霊や悪魔が眠っている人間の中に「流入」してくることによって起こると考えた(スエーデンボルグは不可視の霊的波動のような媒質を考えていたらしい)。一方、ユングの考えは、入眠時、あるいは覚醒時に人間の意識のレベルが低下する、それによって大銀行の地下金庫のような分厚い頑迷固陋な意識の埓が開き、その間隙を衝いて無意識の中身が意識上に湧出して来る。それを朦朧とした半覚醒状態の意識が意識すると夢となるというものである(これは現代の科学的な夢実験でも証明されている)。それが個人的な無意識層からのものの場合、変な夢となって現れ、集合的無意識層から出て来たものの場合、往々にして民族を導いたりする「大夢」つまり予知夢となったりする。古来この役割を担ったのがどの民族・共同体にも存在した巫覡(ふげき)であった。ところで夢をこころの無意識層に由来するものだとすると、それを覚醒状態で行おうとするのが、東洋で古来行われて来た瞑想法、なかんずく観想法であろう。眼は外に向かって付いていて、内側を見ることが出来ない、とはよく言われることで、意識も同じで常に外部に向けられていて自らの内部を意識することはめったにない。そのような意識だが、一点に集中させる行為を通してその水準を下げることは出来る。絶えず外に向かうように出来ているエゴを内側に向けるこの観法は日本では平安時代の貴族によっても行われていた。権力を掌中にしかつ盤石なものにした彼らにとって、残る最大の関心事は現世での栄耀栄華をいかにして死後にまで持って行くかということだけであった。そのために当時信じられていた極楽往生をひたすら乞い願ったのである。単に念仏するだけでなく、実際にこの世で生のある内に極楽を見ようとまでした(その一つが造寺造営)。宇治の平等院鳳凰堂は典型例で、池を挟んで此岸(現世)と彼岸(来世)とに分け隔てられ、一般人はこっち岸から格子越しに顔だけ覗かせている上品上生の阿弥陀仏の尊顔を拝することしかできなかったが、施主の藤原貴族は内陣に入り、およそ三メートル近くある結跏趺坐した阿弥陀仏の面前に坐って一心不乱に月輪観という観法を修した(事実、阿弥陀像の内部には銀製の月輪が蔵されている)。心が清浄でなければ、極楽に引接(いんじょう)されることは叶わない。もっとも日常普段に平等院に行けるわけでもないので、自宅では日想観という観法を行った。これは日没時に静坐して崇麗なタ陽が西の空に没して行くのを日々眺め、そうしている内にやがて目を瞑(つむ)っていてもその光景が瞼(まぶた)の中にありありと見えるようになり、さらに目を開いていても見えるまでにする。そうして次の段階に進む。瑠璃(るり)でできているという極楽浄土の大地を観想するのである。このようにして極楽世界の荘厳(しょうごん)の様子を克明に一つ一つ観想し、ついには極楽全体をイメージする。その「結果」として寝ても醒めても常にいつも極楽は心の中に、むしろ目の前に現前していることになる(スエーデンボルグが実際に天界に行ったと言うのと同じことになる)。そしてまさしくここがポイントである。心の中に現前している、こころの中にあるものこそが「存在」するものである。これこそが唯識の主張の眼目なのだ。合理的物質主義にドツプリ浸っているわれわれ現代人は、馬鹿なことを言うものだと呆(あき)れ返る。目を瞑(つむ)れば自分にとって世界が無くなってしまうのは当然だろう。熟睡している時もそのとおりである。その上、自分という人間が存在しなくても、世界は実在している。そう言うだろう。しかし、私がこころの中で把捉しているものこそが、私にとっては実際に在るものだ。唯識は物凄く精緻な思索体系であり、用語の難解さから一般人にはまるで理解できないものだが、その眼目を日常的な表現で簡約化して言えば、右のようなことになる。だが、お腹が空いた!痛いよう!これは物質的に確実で間違いのない事実ではないか。それはそうだ。ご飯を食べなければ誰だって死んでしまう。だから、腹減った!と物質的・有機的、肉体的存在のわれわれは叫ぶ。だがもう一度引っ繰り返してみると、空腹だと認識し判断するのはやはり「こころ」なのである(唯識はこの事実や自然界の存在についても、常に活動し続けている阿頼耶識から生じているもので、かつ同時に、その認識対象となっているがゆえに「存在している、事実だ」と阿頼耶識自体が判断するのだと説明する)。しかし、この認識は刹那に滅する。これを持続している確乎たるものだとわれわれ人間が思うのは、第七識の末那識がそのように見せているためなのだと主張する。彼らの論は単なる理屈ではない。自らのこころの内部を瞭々と見据えてそう宣言しているのである。そうすると問題は、物質的事実だと確信されている事柄が、本当に事実なのか否かが肝心要なのではなく、現代人のわれわれの立場からすれば、その「事実」にいつまでも拘泥し振り回されてしまうことこそが「問題」なのだと言うことになる。門外漢の筆者からすると、唯識が主張しているのは以上のようなことである。また横道に逸(そ)れてしまった。話題を元に戻そう。平安時代の観法は、例えば天台宗における摩訶止観が代表的なものだが、鎌倉時代には、その流れの中に華厳宗の明恵上人が出て来る。そして、この明恵には自身の夢を記録した『明恵上人夢記』なるものがある。夢を見ない人はいない。誰でも皆夢を見るのだが、民族の命運を決する夢(いわゆる、大夢)でもなければ記録されることはほとんどない。従って自筆で残っている明恵のこの記録は異色で貴重なものと言えよう。ところで夢の記録と言うと、スエーデンボルグにも『夢日記』なるものが存在する。そこで、夢をこころの統合、全人格の形成、自ら成るべきところのものになる大いなる手掛りとする近代の分析心理学的考え方と対比しながら、この三者の夢を巡って川端歩きをしてみることにしよう。

  明恵の『夢記』は、およそ一一九五(建久六)年から一二三〇(寛喜二)年(明恵二二歳~五七歳)にかけて記録されたものである。分量はさほど多くないが、いずれの記事も「その夜の夢に」とか「夢に云く」とかの形で見た夢が記録されている。明恵は弟子の喜海が記した伝記『梅尾明恵上人行状』によれば、幼少期から菩提心が強く(子供の頃に母親に死に別れた人に、往々にして後に偉大な宗教家になる人物が多く、明恵も伯母に養育された)、四歳の時に父親が烏帽子(えぼし)を被せて、そのあまりの可愛らしさに、これなら御殿に仕候させるおのこにしてもいいほどだ、とふざけて言ったのを聞いて、子供心に、法師になりたいと思っているのに可愛いらしいから稚児にしようなどと言われるのだと思い、自分でわざと縁側から落ちてキズものになろうとしたという(同様のことがやはり後年に起こっている。道をひたすら求めようとする激しさから、頭を丸め、僧衣を身にまとい、貧しそうなふりをしていても、かえってそれを誇りにし、慢心する輩の多いことを嘆き、道を求めることが本当に切実なら、身なりをやつして良しとするだけでなく、自身の眼、あるいは鼻、耳、手足をもやつし断ち尽すべきであろう、ところが世の坊主共はその反対の有様で、出家してもなんのかいもない、という気持が強まり、自分の身自体をやつして、徹底的に仏道に精進しようと決意した。だが、鼻をそいでしまうと鼻水が垂れ流しになって経典を汚してしまう。手を切ってしまうと印を結ぶのに障りがある。耳ならば切っても別に聞こえないこともあるまいと、ついに剃刀(かみそり)で自分の右耳を切り落としてしまった、と伝えられている)。九歳で高雄の神護寺に入った。十三歳の時、老少不定の念を起こし、修道に励んだが、肉身があるためこれが障害となってあれこれ煩い苦しむのだと思い、野犬にでも食われて死んでしまった方がましと、夜に墓場(死人がただ放り出されたままになつている)に行って死んだふりをしていると、狼や野犬が多く集まって来て死体を食い散らす。恐ろしくてたまらなかったが、自分の身を犬共はただ嗅ぎ回るだけで食おうとはしなかった、定業(じょうごう)がなければ死のうとしても死ねないのだと思ったという。念願の法師となったのは十六歳で東大寺の戒壇院で具足戒を受けた。このように幼少年期から仏道を志した明恵は後に栂(とが)尾(のお)(梅尾、とも)の高山寺の住持となり、境内の樹下石上至る所で坐禅・観法をするなど、徹底した修道の一生を送った。もっとも生物としての人間の性衝動には苦しんだ時期がやはりあって、一生不(ふ)犯(ぼん)の誓いを立てたもののそれを破りそうになる事がたびたび起こった。だが「不思議の妨げ」があってそういうことにはならなかったという。スエーデンボルグは、その前半生は俗人だったのでこんなことはなかっただろうが、彼もまた生涯を独身で通した。彼は『夢日記』の中で、「夜の間の、私の大きな喜び。…(中略)…また、性へ心が傾くことが少しもなくなっていた。以前の私の全生命といえるものであったのに」と述懐している。これはスエーデンボルグが、神の賜物である直覚的経験(啓示や見神体験など)は、エゴの不潔なものとは共存することができないと述べているのに対応している。仏教でも、煩悩の罪障については事あるごとに説かれており、例えば「ブッダ(覚者)」という言葉は古代のサンスクリット語で、その語根〈ブッドゥフ〉は、ロウソクの炎つまり燃え盛る煩悩をフッと吹き消した状態を指す。しかし、スエーデンボルグは一方で、俗界から離れた信仰生活を送ることに対して、それを必ずしも良いものとは考えておらず、むしろ労働、家庭生活を堅実に営みながら神への信仰と愛の生活を送るべきだとする近代社会の市民観のような考えも表明している。

  ところで、スエーデンボルグの『夢日記』は、一七四三年から翌四四年(スエーデンボルグ五五歳~五六歳)にかけて、ハーグへの旅行の際の旅行記の中に記録されたものである。スエーデンボルグの研究家によれば、この時期が彼にとって人生の大転換期であった。つまりスエーデン鉱山局の技師、また当時解剖学の中心であったフランスのパリに留学して解剖学に精通した科学者から、神からの突然の流入を受けて(神父の家に生まれ、子供の頃からそのような資質はあったのだが)否応なく宗教家に転身せざるを得なくなる、まさにその過渡期に記緑されたものである。旅行の記事の中に、夢、あるいは夢か現かの状態の中で現出した事柄が記緑されている。この後、スエーデンボルグは猛烈な勢いで膨大な著作をすることになる。それは彼自身の述懐によれば、その大半が何ものかによって書かされたのであると言う。いわゆる憑霊(ひょうれい)者の自動筆記のようなもので、確かに場所によってはスエーデンボルグの書体とはまったく異なる部分もかなり見られる。しかし、憑霊された人間や統合失調症の人間とは異なると考えられるのは、彼自身が書かされていることを自覚しているだけでなく、その内容を選択し整序している点のあることである。結果的に彼の著作は大拙がスエデンボルグ研究の意義として拳げた「真理に称(かな)」った真率な内容となっている。

ところで、夢との関わりはないが両者には共通する超心理学的逸話がある。一つは「千里眼」。これは宗教者には往々にして伝えられる奇蹟や超能力の類の話である。スエーデンボルグのこの能力を有名にしたのは、一七五九年、イギリスからの帰国の途中、滞在先のイェーテボリでストックホルムの大火の様(さま)を居合わせた人々にリアルタイムで語ったことで、彼が言ったとおりのことが起こっていたことがその後、宮廷の使者がもたらした詳細な書簡で判明し、スエーデンボルグが言ったことと些細な点に至るまで合致しているのでみな驚いたという(現代のようにテレビやインターネットなどというメディアのない時代の話である。またこれについては、ユングもその著作の中で言及している)。一方、明恵の場合はもっと慎ましやかな逸話が伝えられている。ある日、修行の最中に侍者を呼び寄せて「手水(ちょうず)桶(おけ)に虫が落ちて溺れかかっている、急ぎ助けて放してあげなさい」と言う、出てみると蜂が水に落ちてまさに死にかかっていたので侍者が救い上げ、放してやったという。また同じく、夜更(よふ)け炉辺で眠るようにして坐っていた明恵が、突然はっとして「ああ酷いことを。早く気付けば良かった、もう食われてしまう。灯かりを点けて急いで行って追い払いなさい」と言うので、傍にいた僧が「どうしましたか」と聞くと「湯殿の軒先にある雀の巣に蛇が入った」と言う。湯殿はここからずいぶん離れた所でしかも真っ暗闇で何も見えるはずがないのに、と訝(いぶか)りながら駆けつけてみると果たして、蛇がまだ羽根も生え揃わない雀の子をまさに呑み込もうとしているところだった。スエーデンボルグの話と比べるとほんの些細な日常の一コマに過ぎないようだが、小さな生命をも哀れみ慈しむ宗教者としての一面が伝えられていてなんともおくゆかしい。もう一つは、スエーデンボルグが霊界に行って人の霊と話をして来たとする逸話。それは既に公然の秘密の噂話で、興味を持ったり面白がったりして彼の周りに集って来る者たちがいる一方で、胡散(うさん)臭い食わせ者と見て彼を敬遠する者も多かった。あるとき宮廷でスエーデンボルグが天界や天使の話などをして談笑していると、自分はたやすく騙されはしないと自負していた女王(ウルリカ・ロビーサ、プロシア王フリードリヒ大王の妹。カントも彼女の聡明さには一目置いていた)が「じゃ、兄に会うことがあったら、彼の言葉を私に伝えて」とからかい半分に言った。すると数日を経ずしてスエーデンボルグが女王の元にやって来て、兄君に会って伝言を頼まれて来たとひそひそ話をした。耳元でささやかれた言葉に女王は真っ青になってしまい、その異変に周りの者がみな驚いた。彼の口から出た言葉は兄妹二人だけしか絶対に知り得ないもので、また他の者に知られてはまずい秘密の内容であったからだ。この話は瞬く間にヨーロッパ中に広まり、スエーデンボルグと同時代のドイツの哲学者カントもこればかりは無視できなかったらしく、前に述べた千里眼の話も含めて、スエーデンに伝手(つて)を頼って情報を集め真偽を確かめようとまでしたという。一方、死んで地獄に落ちた高名な僧と夢の中で話をする記述が明恵の『夢記』にもある。

  いずれにせよ、明恵とスエーデンボルグの夢はユング心理学の夢の扱い方とは同一視できない記事で、その由来はたぶん両者共に宗教家であり、そういう立場の自覚を持っている点にある。明恵の夢の扱い方は大筋において夢を単に記録しただけのように見えるもの(これが分析心理学の対象になるとする学者もいる)か「霊夢」という理解・対応をしているものかであり、同様にスエーデンボルグの場合も、神や精霊・天使などによる、自分が置かれている状況や進路に対する教示と理解している場合が多い。いずれにせよ両者共に夢を「自分で解釈している」点で共通している。さらにスエーデンボルグの天界の具体的な記述に関しては、仏教の極楽浄土の描写や曼荼羅(まんだら)との対応を考えることができよう。明恵の夢にもわずかだが浄土や兜率(とそつ)天の記述などがある。また、無想観を行っているさなかに獅子に乗った金色(こんじき)の文殊菩薩が出現したり、夢に金色の大孔雀王(仏の化身)が現れたりするのは、スェーデンボルグが天使を見たり夢にキリストが現れたりしたのと同じことである。いずれにせよ、その人間が生まれ育った文化伝統の枠内でしか夢といえどもそのイメージは出て来ないようである。これに対して、近現代人の場合、そのような強烈で純一な信仰対象を持たないのが大半なので、夢は、わけの分からない奇妙なものでしかない。それを一般普通のわれわれにも意味のあるものにしてくれたのが、ユングの分析心理学であろう。もちろん、ユングのこの理論も科学的見地からすれば仮定的なものでしかない。何しろ「こころ」が実在するかどうかは科学的には実証されないのだから。しかし、ユング派の精神治療から帰納されて来る人間のこころの構造については、なるほどと納得させられるものが多いのもまた事実である。まして、インドのヨーガ行者のような苦行のできようはずのない筆者などからすると、夢を相手にすることくらいなら、なんとかできそうである。ただし、先にも述べたとおり、西欧人とわれわれ日本人(東洋人)とではこころの基質が異なる。従ってユング派の夢理論をそのまま鵜呑みにすることはできないのだが、西欧近代文明の洗礼を受けた明治以降の近代的日本人ということであってみれば、あながち当たらないとばかりは言えないだろう。

意識が捉えられない無意識、即ち、心が捉えらないこころ、そしてその根源にあるものこそが、われわれの生命を駆動し開展させているのだとしたら、肝心なものが意識・心の中心であるエゴ(唯識の場合は無意識層の第七識、末那識がその本体である。無意層にあるエゴであるからこそ手に負えないこの末那識)で、われわれのこころが掩蔽(えんぺい)され無明の闇の中を彷徨しているのだとすれば、これは「お池にはまって、さあ大変」どころではない。死後の世界があるのか、ないのか。科学的にはいまだ実証されてはいない。証明されていないとするならば「理性的」な人間としては、どういう態度を取るべきであろうか。死後の世界がなければ何も問題はないのだから、「あった」場合に備えた生き方をするのが理性的というものだろう。同様に、ユングのこころの構造も実証されたものではないが、理性的立場に立てば、そうかも知れないという観点に立って対応しておくのは悪いことではない。こんな理屈を並べておいた上で、ユングのこころの構造をいま一度確認しておこう。ユングはしかし、人間のこころの構造がなぜこのようになっているのかについての説明はいっさいしない。それはある意味で科学者的態度である。神経症の患者の臨床治療から帰納的に人間一般のこころの構造を想定しただけである。ユングによる心の見取り図を簡単に言えば、人のこころは意識とその中心のエゴ、そして無意識とこころ全体の中心であるセルフとによって構成されている。意識は、自らの心こそが全てだと思い込んでいて、こころのもう一つの領域である無意識を識らない。ところが無意識のこころの作用は意識をも含んだ全体として、心が識らないレベルで働いている。意識と無意識、心とこころの調和が取れていればこころ全体としての平衝状態を保っているが、このバランスが崩れると心の病気が引き起こされる。そのようにユングは考えた。そして、完全無欠な人間がいないように、健康に見える人でも、どこかしら何がしかの疾患や障害を程度の差こそあれ抱えているということを思ってみれば、通常の人間のこころも異常な人間のこころのあり方とそう径庭があるわけではない。そうであるからには、健常な人間といえども自らのこころを自覚する、即ち、意識が心の全体でエゴがその主宰者であるという抜き難い観念から解放されて、無意識の領野を理解し、それと折り合いをつけることこそが肝要である。ところが、意識は無意識を意識できない。そういうわれわれにとって、意識が無意識と交渉するチャンスは、誰もが見ることのできる、夢である。ところが夢は「おかしな夢を見ちゃった」としか意識には感じられず、無視するか忘れるかして、あたら無意識との交流のチャンスを自ら閉ざしてしまう。そこでユングは無意識の内容を整理してみせた。誰もが持っている無意識の要素を析出して、これを元型(アーキタイプ)と名付けた。即ち、ペルソナ(仮面)・シャドウ(影)・アニマ(女性性)・アニムス(男性性)・グレートマザー(太母)・オールドワイズマン(老賢者)。これに「内向」「外向」という人それぞれの人格傾向を加えると、その人物のこころの全体像がわれわれの心に出現してくることになる。元型はもちろん、こころの深層・基底の構成要素で、無意識の浅い層、即ち個人的無意識は抑圧によるコンプレックス(感情複合体)によって形成されている。自らによって個人的無意層に抑圧されたコンプレックスの内実をまず意識・エゴが認め、さらに自分の生きられなかった半面となって無意識の下層に沈んでいるペルソナ・シャドウ・アニマ・アニムスを意識化させ、そしてさらに、すべてを産み出すと共にそれを呑み込んでしまうグレートマザーを認識し、その奥に潜んでいるオールドワイズマンのイメージに到達することによって、自己を自己たらしめ十全に開発させる駆動力となっているセルフを自覚する。そうして初めて心がこころとなって本然の働きをするようになるのだ、ということをユングは考えているらしい。このような方向で自分のこころを自覚してゆくことで、心の鬱血、遅滞、結節がそれなりに解消され、生き生きと精神が流れ出すことになる。だが、それでも肝心の「こころ」の正体は明かされないままで残っている。ユング自身が「セルフ」を実体として捉えているとは言い難いからである。そこで、この「こころ」の当体を「指差す」には、もう一度、東洋的世界に戻ってみる必要がある。インドならびに中国の思想伝統に立ち返ってみよう。

周知の通り、中国では本来の意味での宗教は発生、発達しなかった。孔子による社会秩序・道徳の体系が古代から実効性のある力を有し、社会形成を促して来たからである(彼らの死後観は単純で、この世と同じようにあの世もあると考えた。ただし、あの世での幸せな生活すなわち冥福は子孫が行う祭祀のいかんにかかっているとされ、厳格な服喪規律が制定された)。宗教は西域径由でインドに赴いた、あるいはインドから来た仏教僧によってもたらされ発展した。当初は従って学問仏教であったが、紀元五世紀、インドから渡来したとされる菩提達磨(ボーディダールマ)によって伝えられた禅宗が宗教としての中国仏教を大きく発展させたと見ることができる。第一祖のダルマと二祖慧可とのエピソードは初めに見たとおりであるが、世俗を離れ禅堂を中心とした自給自足の共同生活を営みながら実際的な日常活動、労働を通して「こころ」の探究が行われた。彼らの修業目的は、何度も述べているように、仏教の開祖・釈迦が開いた悟りを自分自身の身に実現することであり、かつまた、それによって衆生を済度することにあった。どうやら、開悟した者には同時に、例外なく慈悲のこころが湧出し、それと同時に博大な感覚領野が拓けるようである(「観世音」や、維摩の「衆生病む、故にわれ病む」などの言葉がそれを表している)。この禅宗が栄西によって日本に招来され、やがて道元によって曹洞宗が開かれ、足利時代には大応・大燈・関山らの禅師によって臨済禅が興隆、日本の中世文化に大きな影響を及ぼしたことは誰もが知る所である。しかし、仏教自体は徳川時代に入ると、幕府の御用宗教・戸籍係となるに及んでその宗教的力を衰退させてしまう。禅宗においてはしかし、曹洞宗に卍(まん)山(ざん)禅師が出世、臨済宗では白隠和尚が出現してその法脈を保ち、激動の近代日本・明治期に入ることになる。仏教・キリスト教を問わず、宗教体験は言語を超越した実地のもので、例えば禅宗の場合は師資相承で法が伝えられる。師匠が弟子のこころを日常生活一般の中で検分して釈迦の悟りに契(かな)っているかどうか判断して合格証を出す。出された弟子はそれに応えて、たいてい投機の偈(げ)なるものを呈する。例えば中国の五代十国時代(十世紀初頭)、法眼文益(法眼宗)の下で開悟したとされる天台徳韶の偈「通玄峰頂不是人間    心外無法満目青山」などがそれで、無師独悟とされる日本の盤珪禅師の「古桶の底抜け果てて三界に一円相の輪があらばこそ」などもその類いである。門外漢にも分かりやすい例を挙げれば、釈迦からインドの第二祖摩訶(まか)迦葉(かしょう)への伝法のエピソードだろう。釈尊の三身の内の応身、つまり肉体の死期を感じた彼は皆に向かって最後の説法をする旨の通知を出した。最後の説法と聞いた人々は、きっと今まで説かなかった秘密のことが明かされるに違いないと期待し、その日、実に大勢の聴衆が集まった。登壇した釈迦はしかし、一向に口を開かない。今か今かと待っている聴衆の期待はやがて、失望と怒りの声に変わって行く。そのざわめきが最高潮に達した瞬間、釈迦は手に持っていた華を聴衆に向かって差し出した。いっそう高まる喧騒の中で一人、摩訶迦葉だけが差し出された華を見てニコッとした(拈華微笑(ねんげみしょう))。それを見た釈迦は、彼に法を嗣がせたと言われている。中国・日本の禅宗における伝法はおよそこのようにして行われていた。これに対して思弁的傾向が強いインド人は、やがてこの釈迦の悟りの世界を思索の方面から徹底追究するという方向に向かった。それが紀元二・三世紀頃の、龍樹(ナーガルジェナ)を中心とする中観学派を形成させ、空思想によって世界や存在全体を説明し、次いで四世紀に無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)らの瑜伽行派によって唯識思想が展開される。この学派が人間のこころの構造をヨーガの実践・内観を通して明らかにし、インド人にとって最も肝心な輪廻転生の実体である阿頼耶識を発見することになる。しかし、唯識の主張はここで終わるのではなく、当然のことながら最終目標は修業者自身、唯識が示唆する実践的ヨーガの階梯をたどることによって阿頼耶識自体をつかむことにあり、それによって生死に流転する自分自身を彼岸に度(わた)す、即ち悟りを開くという一点にある。この意味で仏教が主張する「悟り」、要するに誰もが持っているとされる「仏性」は、ユングの「セルフ」を遙かに突き抜けていると言えよう。

 

六 心のこころ

  どうやら、こころには「心」と「こころ」があるらしい。「心」はわたしたちが普段こころと思い込んでいる、ユング的に言えば表層(見える・わかるという意味・イメージで)の意識で、さらに深層に(見えない・不明という意味・イメージで)無意識があるようである。そして無意識を個人的なものと集合的なものとに分けるユングの考え方に対して、仏教の唯識学派によれば、末那識と阿頼耶識という二つ無意層があるということになる。そして、ユングにあっては、無意識の浅い層にある内実はその人の成長過程・日常生活で抑圧された様々なコンプレックスによって形成されていてそれゆえに、表層意識に対して絶えず強迫的な働きかけをしていると考えられ、また、さらに深層には個人を超えた人間に共通の内実、元型(アーキタイプ)があってその人のこころを、意識が意識できないままに根底から駆動しているということになる。ところがエゴを中心とする表層意識は自分こそがこころだと思い込んでいるので、自らが主宰している心以外のこころの働きかけを認めようとしない。そこから、「わけのわからないこころ」が心を衝迫して来ることになる。従ってユング派の心理分析では、この心が認めようとしないこころを認識すること、意識が認めたくない自分のこころの内実を認める(自我内統合)を行うことによって「心」が拡充し、安定したものになると考えるようである。これに対して、唯識・瑜伽行派が説くこころは、個人を超えた時間的にも空間的にも無辺際にわたるこころで、三世(前世・現世・来世あるいは過去世・現在世・未来世)を貫いて輪廻転生するものである。そしてここまで繰り返し述べて来たように、その当体・主体となっているのは第八識、深層の阿頼耶識である。この阿頼耶識の中に劫(ごう)初(しょ)からの業が蔵されていると考え、それによって生まれ変わり死に変わりすると主張される(現代風にDNAとでも言えばイメージし易いかも知れない)。そして、この阿頼耶識を対境として、第七識が抜き難い自我執着を持つものとしての自らの存在を定立するようである。この末那識が人間のエゴ(利己心・自愛心)の当体である。先行の中観学派の空思想を発展させた瑜伽行派の唯識思想でも、あらゆる存在の空性、すなわち無(む)自性(じしょう)性・依(え)他(た)起(き)性(しょう)性は継承されていて、それゆえに生起するすべての物事は仮現で刹那に滅するのをその性質としている。それをまるで永続性のある実体・実在であるかのように見せる作用をしているものこそが、末那識なのである。

人の心は常識的には持って生まれた資質だけでなく、その人間が生まれ育った環境、社会共同体の文化伝統、価値観などに大きく影響され、成長する過程でそれらを摂り入れながら心が形成されて行くと考えられている。従ってわれわれの心は社会・共同体の価値観を色濃く有していることになる。そしてもちろん、このような価値観によって社会・共同体が形成されているので、社会・共同体自体のこころというものを想定すれば、これまた表層の個人の「心」と深層の「こころ」の関係と同種のものになる。自らの「こころ」に無自覚なまま、むしろそれを認めず排除する形で社会共同体が営まれ動いているとすれば、人間社会の歴史はいったいどのようなものになるのだろうか。けっきょくエゴを主体としている限り人間として向上して行く契機、他人を愛し慈しむ心が発展する見通しは立たないということを、西洋人にせよ東洋人にせよこころある者はみな痛感していたのではないだろうか(キリストが隣人愛を強調したのはそういうことであろう。だが、この愛は欧米人の間で通用するだけのもので人類に普遍的なものとはならなかった。根強い人種差別を見よ)。文明が進歩したと胸を張る現代世界を見渡せば、至る所で紛争が起き、戦闘は絶えることなく、生まれた土地を追われた無数の人間が塗炭の苦しみをなめているのが現実である。自らの「こころ」の全体を知らないまま、「心」に衝き動かされ、なかんずく、そのエゴイズム、利己心、自我愛にそれと知らぬまま引き摺られているわれわれ人間の姿が明らかに見えてくる。ユングは、ナチス・ドイツが人類史上未曾有の大殺戮を行った駆動力として、ドイツ民族の集団的影(シャドウ)であるヴォータンが作用していたのだと分析している。しかし、飜ってわれわれ凡夫の立場に立って反省してみると、心のこころをつかまえるのはどうやら並大抵のことではないようである。仏教僧や修道士のように俗世から離れて一意専心、「こころ」の探究に邁進することなどとうていできない。俗世などと軽蔑されようが、この世界は様々な快楽に満ち溢れている、こんなに魅惑に満ちた素敵な世界は他にないじゃないか。「心」はこう主張する。しかし、一方人間の心とこころはどうやら以上述べて来たようなものであるらしい。とすれば、われわれは漱石が『門』の最後で述懐するように、「自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて敲いてもついに顔さえ出してくれなかった。…(中略)…彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。…(中略)…彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」(二十一)そのような自分であるしか方途はないのであろうか。ことここに到ると、わたしのような単純でグウタラな人間は、決まってどこか抜け道がないかキョロキョロと右顧左眄、潜り込む当てを探そうとする。何やかやとクダクダしく御託(ごたく)を並べているが、真理なんてものはもっと単純、明快なもののはずじゃないか。確かに坊主どもが言うように「縁なき衆生は度し難し」だろうが、「縁」を求めて手を差し出している、しかし、自分じゃ何もできないしする気もない衆生はどうしてくれるのか。そう詰め寄りたくなる。これに懇切丁寧な対応をしてくれたのが、筆者の知る範囲では盤珪永啄(ばんけいえいたく)という禅坊主である。彼は臨済宗中興の祖とされる白隠(はくいん)慧(え)鶴(かく)と同時代、江戸初期の人であるが当時の禅宗の坊主としては異色の存在で、説法を漢文によらず平語(日常語)で行った。そしてその説法も決まっていつもたった一言、「不(ふ)生(しょう)のままそのままでようござる」。盤珪の禅を「不生禅」と称する。人は、生まれながらにして皆「仏性」を持っている。したがって生まれながらそのままで「仏性」が輝き出し、人はその人なりの資質に応じた任運騰々、天衣無縫の生き方ができる。それを「ひょいとわきかせぎ」して「エゴ」を出してしまうから、いけない。「そのまま、不生のままの仏心でおじゃれ」。盤珪が一生をかけて善男善女に説いたのは、たったこれだけのことである。つまり真実は明々白々、露堂々なのだ。ただ「エゴ」によって目を瞑ませられたわれわれ凡人には、それが見えない。そういうことであるらしい。もっとも、たったこれだけのことを言うために盤珪自身は誰にも頼らず自分一人で峻厳苛烈な修行をした。そのあまり、重篤な病に陥り危うく死ぬところだったと本人が述懐している。……なぁーんだ、そういうことか。どうもここらで振り出しに戻ってしまった。ウロつく道も行き止まりになってしまって、そろそろ家に帰るより他の途はなさそうである。曰(いわ)くありげに何もない所をぐるぐる嗅ぎ回る犬とまったく同様の仕儀とはなってしまった。と言うわけで、筆者なりの簡単な締め括りをしてこの雑文を終わることにしたい。

病気論の論者が下す病気の定義は一般に次のようなものである。人間は誰でも皆それぞれが程度の差こそあれ何らかの病気(あるいは病気の芽)を抱えている。しかし病人と健康な人間を分けることは実に簡単で、「それによって通常一般の日常生活が送れるかどうか」にある。「送れない」となれば、それは「病気」である。それと同じように宗教と似(え)而非(せ)宗教とを識別するのも簡単である。近頃の若い人は宗教に対する免疫がないので、実に安直にカルト教団に入ってしまって様々な悲喜劇を演じてしまうことも多いようだが、いやしくも宗教と名札を付けるならば、自分を後にして苦しんでいる人間を先に、無償で救うものでなければならない(マザー・テレサを見よ)。その宗教がいかなる理由をつけようが「金を出せ」と言うようになれば、それは似而非である。それよりももっとはなはだしいのが、神の名によって「人を殺せ」と命令するものであろう。宗教の皮を被った権力志向の権化に他ならない。それと同様に、自分の「こころ」をしっかりと把持している人の見分け方も実に単純明快である。宗教家ではない一般人のことなので、自分を後にして他を先にする人、とまで言う必要はない。自分の身近な周りの人々を朗らかにし溌溂と生きる意欲を知らず識らずのうちに与えている人。そういう人は例外なく自分の「こころ」を識っている人である。太陽の欠片(かけら)の一つの粟粒、のような人、とでも言おうか。これは知能の善し悪しや知識の多寡とはいっさい関係がない、というところが実に不思議である。「頭が良い」というのは「小賢(こざか)しい・小(こ)狡(ずる)い・悪知恵が働く」と往々にして同義になる。いわゆる「頭の良い人間」がエゴの塊でないという保証はまったくないからである。それはともかく、だったらこの「こころ」を識るにはどうすればいいのかということになると、あれこれとコンニャク問答のごとくわけの分からないことを書き散らして来たとおりで、なかなか厄介なことになる。

「そのままで、不生のままで、ようござる」と言うしかない。「不生」とは蓋(けだ)し、「エゴ」が出て来る余地がないということであろう。

                                                                      ―了―