guteki’s blog

愚適庵の日文美術館

 自作の、詩集・小説・随想など、一文をわざと長くしたり、逆に短文にしたり、形式段落を長大にしたり、訳の分からない文体にしたり、
色々に描いたものを展示しています。

詩集 こくいー

 
    禅の公案を素材に、それに引き摺られながら蜘蛛が吐き出す糸のように文字にしたもの。固より禅とは直接の関わりはなく、現代詩の仙人と称せられた西脇順三郎が禅問答に超現実的な面白みを感じて詩に通じている所がある、とどこかで書いていたのを真に受けて訳が分からないまま藪に入ってしまっただけのことで、当然、「具眼」の人間ではない。「具」とは、ここでは「備える」の意味。誰だって眼を二つ持っているではないか。「具眼の人間」とはどういうことか。それは第三の目が備わっているということだ。仏像の眉間にある「白毫」が、実は第三の目を表している。悟りで開かれた眼だ。手塚治虫の「三つ目が通る」はこれを漫画的にデフォルメしたものだろう。話を元に戻す。私は具眼の人間ではない。禅の公案を語る正当な資格はない。詩人の西脇順三郎の受け売りで、ちょいと訳の分からない、しかし、なんだかおもしろい禅の藪の中に踏み入っただけである。「崇高な諧謔」というタイトルの西脇の次のような詩はここを呼び水としているに違いない。「古い池に/カエルが跳びこむ/水の音がする」。何だよ、これ。何処が面白いんだ。全然面白くない。「古池や蛙飛び込む水の音」を現代文にしただけじゃないか。だが、「崇高な」がついている所がきっと味噌なのだ。超現実主義の詩は、西脇は自分の詩を超自然主義と言っているが、言葉とその意味の先を示そうとする。意味概念を追う人間には、だから、何だか訳の解からない変な詩にしか見えない。と、まあ、そう言うことで、詩人としても西脇の足元にも及ばないが、そんなものを書き連ねて見ようというのが、この詩集である。

      『こくいー』
「こくイー」
苦しい嫌なことは死んでもしない。
死んでしまうのはなおさら嫌だ。
安楽呑気に極楽生きたい、
尻の底から殻からの怠け者。
 人身受けがたし。
 今生にこの身を度せずんば、
 いずれの世にかこの身を度せん。
頭じゃ判るがお尻じゃからわん
 
     「させん」
根性を付けたいから、 坐禅しに来ました。
落ち着きがないから、 坐禅しに来ました。
悟りを開きたいので、 坐禅しに来ました。
 やがて方丈に登場した坊主、
    根性も落ち着きも悟りも、 なーんも
 坐禅と関係ないぞ、
    ためからのでがないのが坐禅じよ。
一座にいた私の一人は、
悟りを開きに坐禅しに来たのですぐに、
立ってくるりと回れ右した すかさず 
 おい。
と呼ばれて、 ハイ。 と返事して しまった!

間抜けめ、 やはり坐禅しに来たんじゃないか。

「無仏性」
和尚さん、ゴキブリに知恵がありますかい?
うむ、あーる。
じゃあ、和尚さん、あっちに知恵があります かい?
あるにしちゃあ、なんにもわかんねえんだが。
ありますかい?

うむ、なーい。
てやんでぇ、おこるぜ。
ゴキブリにあって、
なんであっちにねぇんだい。
ま一回聞くからまじめに答えるんだぜ、 このくそ坊主。

ゴキブリにしんじつ仏性がありやすかい?
うむ、なーい。

 二階に上がった
梯子がはずされてしまった。おーい、おりゃれらいなよー。
「喫茶去」(きっさこ)
みんなが同じに持っている
にもかかわらず持っている ことすら
わからないことすらきづかない
何物にも替えられない命にも替えられない
ただ一つの宇宙の自分の真実 明々白々
露堂々 が分からない見えない
それは誰でもみんなが同じように持っている
そのために言えない。

それにしたってなぜあんたには言えるのだろう
このみんながもっている
にもかかわらず ほとんど誰も知れない
一番大事なもの

 それぁ
 何か言わずにゃいられまい。
「喫茶去」
結局そういうことなのだ分かったのは
死んで生まれるだけなのだ
自我といい意識といい知性という
小賢しい小利口な分別というやつで
昼行灯のような真昼の豆電球で
太陽よりも遙かに明々白々な
この広大無辺際の世界と世界でないものとを
照らし出そうとする なんてよしにすることだ
そんなことよりまぁ
コーヒーでも一杯
おあがんなさい。
(注記)コーヒー
誰でも体験する事だが、普段コーヒーを飲み慣れている人でも、二、三日閉関して摂心した後にコーヒーを飲むと、心臓の鼓動、動悸が激しくなり、バクバクしてしまうのに吃驚する。カフェインの作用である。素に戻った体にはそれ程強い効果がある。従って禅家では刺激物を遠ざける。とは言うものの、所謂お茶は普段に飲む。ヨーロッパの教会では、コーヒーを修業の為の眠気醒ましに飲用していたようである。彼我の瞑想の次元の違いでもあろうか。「
「趙州無字」
無を見て来い
有無の無でもなく
虚無の無でもない
見ることも見ないことも出来ない
無を見て来い
といわれても結局 文字をあれこれ
こねくり回して そのうち
なす事もなく居眠りしてしまった

下生下根 目を半眼にして坐る
まだ見える半分見える
目を閉じる まだ見える薄明かりが見える
闇が見える
光も闇も 見えなくなったとき

そのとき来い

「趙州無字」

 

「好雪片々」

 

 
 
「香厳撃竹」
出棺の引導に師匠と弔家に行った
弟子坊主 木魚の揆を逆様に
棺をコツコツ敲くと
これ生か、これ死か。
    誰に尋ねたのか
    皆んなびっくり泣き声も
これ生か、これ死か。
    道はじ道はじ。
死人に代って師匠が答える。
    真実必死に聞いているのに
    何で言ってくれないんだ。
それあ、死人に答えよう筈がない。
    もうー度訊くよ
    これ生か、これ死か。
今度答えないと殺しちゃうよ。
    これ生か、これ死か。
道はない、道はない。
 
殺す相手は棺の中。
わーん、帰る道を見失った。
小僧は大泣きで走り去る。 
 
「北枝短南枝長」
 
「南泉斬猫」
 
「蜆子和尚」